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教員系
高校・体育教師

明井 寿枝(1994年度・体育学コース卒)

北海道立高校教員


いつかオリンピックで笛を吹いてみたい。

明井さんは、高校の体育の教員をやりながら、バレーボールの国際審判員の資格を取り、Vリーグなど各種の大会で審判員として活躍しています。国際審判員になるまでの道のりを聞いてみました。
<2009.01収録>

今の仕事について簡単に教えてください。

北海道小樽市にある商業高校で体育教師をやっています。教員になったのは12年前です。バレーボール部の顧問もしていて、いろんな大会で審判員として笛も吹いています。

なぜ教員になろうと思ったのですか?

中学生の時からバレーボールをやっていて、体を動かすことが大好きでした。中学の体育の先生の授業がすごく面白くて、教師という職業もいいなと思っていました。高校2年の時、やはり体育教師を目指そうと思い、体育大学を受験することにしました。地元には体育大学がなかったので、東京でニチジョともう1校を受けました。どちらも合格したのですが、インスピレーションでニチジョに決めました。

ニチジョの4年生の時に、教員試験を受けたのですが、その時は合格できませんでした。北海道で受けたのですが、北海道は全国に先駆けて試験が行われていたので、いろんな所から受験生が来ていて、試験会場ではいろんな地方の言葉が飛び交っていました。受験者数もそのぶん多かったと思います。自分は他の県で受けることは全く考えませんでした。

どうしてですか?

私は暑いところが苦手なので、やっぱり北海道のほうが良かったんです。ニチジョに入学した年、東京の熱い夏にやられて、どんなに具合が悪くなっても食欲だけはなくならなかったのに、その時はさすがに食欲がなくなり、すごく痩せたので自分でもびっくりしたことがあります。「ああ、暑いとやせるんだな。」って思いました(笑)。卒業したらとにかく北海道に帰ろうと決めていたので、卒業式の次の日にきっちりと帰りました。

実家に帰って1年間、私立高校で非常勤講師をやりました。教育実習でお世話になった母校の先生の奥様が、たまたまニチジョの出身だったこともあり、その方が非常勤講師をされていた高校を紹介していただきました。その年も教員試験を受けましたが、またもや落ちてしまいました。

それで今度は親に頭を下げて、「働きながらだと勉強できないので、試験までは勉強だけさせてください。」とお願いしました。半年間試験勉強に集中して、やっと合格することができました。3年越しの教員試験でした。

最初の赴任校はどこでした?

十勝地方の大樹町というところにある高校でした。大樹町は、人口より牛のほうが多い、典型的な酪農の町でした。私は、保健体育の授業と、女子のバレーボール部の顧問をすることになりました。

小さい管内のバレーボール大会などに行くと、審判員が足りず、顧問が審判をつとめなくていけないことがよくありました。私も試合で笛を吹いていたら、地区の審判員の人に「吹けるんだ。」って言われて、審判員の資格を取ることを勧められました。

私は、ニチジョのバレーボール部時代に審判をやったことがあるので、笛はいちおうは吹けました。せっかくバレーボール部の顧問をやっているのだから「ちゃんと資格を取った方がいいのかな。」と思いました。北海道だけで認定される審判の資格があったので、まずはそれを取りました。

その後しばらくしてから、日本バレーボール協会公認の資格を取りました。C級と言って一番下の資格ですが、C級は試合である程度吹いていれば、申請するだけで認定されました。

学校の雰囲気はどんな風でしたか?

共学で男女比は半々くらい、のんびりした感じの高校でした。先生は若い方が多く、夜は毎晩のように飲みに行ったりして、楽しく過ごしていました。ただ、過疎化の影響で生徒の数がだんだん減ってきているのが気がかりでした。

生徒の数が減ってしまったので、学校はとうとうクラスを減らすことになりました。その分、教員も減らさなくてはいけなくなり、移動しやすい若い人から先に出ることになりました。私にとっては初任校なので、最低でも4年はいられると思っていましたが、結局2年で転任することになりました。

次の赴任校は?

次は、夕張の高校でした。6年前に、元々あった工業高校と別の高校の商業科が合併してできた学校です。夕張は、炭鉱が栄えていた時代は町もにぎやかで、やんちゃな高校生が多かったようでが、私が赴任した当時は、人口も減ってきて静かな町でした。夕張に移動してから、B級の審判員の資格を取りました。B級の試験は実技と筆記、そして簡単な面接がありました。

学校は、男女共学でしたが、男子のほうが少し多かったと思います。校内は、荒れていることもなく和気あいあいとした雰囲気でした。ただ、なかなか生徒が集まりませんでした。体育の授業は男女別にやっていたのですが、生徒が4人しかいないこともありました。あまりにも生徒の数が少ないので、私が1人で男女一緒に授業をやるようになりました。

初めて男子を教えて、男女の共習は難しいなと思いました。女子と男子の能力は違うので、同じ授業を行うのはやはり無理があります。でも人数的に成り立たないので、バレーボールなどは、男女混成で試合をやりました。やっているほうは楽しいかもしれないけど、教えるほうは大変でしたね。

バレーボール部の顧問もやっていましたが、部員が少なく結局1年くらいしか活動できませんでした。そんな感じなので、やっぱりちょっと教師としての感覚は鈍ったかな。そのかわりと言っては何ですが、比較的時間に余裕があったので、いろいろ研修をさせてもらいました。

たとえば?

その頃札幌で、バレーボールのワールドカップがありました。試合には、線審(ラインジャッジ)が4人必要なのですが、話題作りも兼ねて、女性だけでセットを作ろうということになり、私もそれに参加しました。そこでいろんな経験をさせてもらい、審判というのは面白いというか、奥が深いなあと感じました。もっと上を目指そうと思い、2001年にA級の資格を取りました。当時女性のA級審判員は、道内で私1人だけでした。

高校は生徒が集まらず、とうとう閉校することになりました。閉校が決まると、新入生は入ってこないので、生徒は年々減っていくばかりでした。最後は3年生だけで、全部で15名。先生は校長もいれて16名だったので、マンツーマン状態でした。結局4年で閉校となり、再び転任することになりました。

転任先はどうやって決まるんですか?

次の赴任地がどこになるかは全くわからないんです。ある程度希望は出せるのですが、それがかなうとは限りません。私は独身なので家族の事情っていうのもないし、ここしかないって言われたらそこに行かなくてはなりません。教員になって12年目ですが、普通は3校も転任っていうことはあまりなく、あっても2校くらいですが、私の場合は閉校などもあったので、その分いろいろ経験させてもらったっていう感じですね。

次の転任先は小樽でした。現在私がいる高校です。今度は商業高校なので、女子が圧倒的に多く、男子は片手で足りるほどしかいません。女の子がいっぱいなので、学校の雰囲気はにぎやかでうるさいくらいです。ここでもバレーボール部の顧問になりました。

国際審判員になったのは?

もっと女性の審判員を増やそうというバレーボール協会の雰囲気もあり、自分もここまできたらできる限りのところまでやってみようという気持ちがあったので、国際審判員を目指すことに決めました。国際審判員は英語が必須なので、準備のために英会話の勉強を始めました。

そして去年、タイで国際審判員のテストを受けました。実際の大会で実技の試験を受けて、その後英語での講義がありました。そのあと筆記テストを受けました。これも英語で、内容はルールに関するものなどでした。最後の面接では、英語のコミュニケーション能力を試されました。

国際審判員と国内審判員はどう違うのですか?

審判員の資格には、国内と国際があって、国内はC級からA級まであります。それぞれ審判できる試合の種類が決められていて、C級やB級だと地方大会まで、A級になると全国大会やVリーグの副審などができます。国内A級の資格を持っていると、国際審判員の資格を取ることができます。

国際審判員は、国際大会で審判ができます。またVリーグの主審をつとめたりします。大学の大会だと、線審(ラインジャッジ)などは学生がやりますが、世界大会ではこれも公認審判員がやります。ちなみに、主審(ファーストレフリー)はネットの横の台の上にいる人、副審(セカンドレフリー)はその向かい側の下にいる人です。ラインジャッジはコートの4隅に4人います。

ランクが上ると審判員としての技術もより求められるんですか?

中学生の試合と、Vリーグとでは、やっぱりボールの高さもスピードも違うので、資格が上がれば上がるほど、吹ける試合のレベルもどんどん高くなっていきます。必然的に審判も実力をつけていかないと、吹けないということになります。

他に求められるものは、やっぱり英語力ですね。バレーボールの世界の共通語は、どんな国でも英語です。私にとっては試合で笛を吹くより、喋るほうが大変でした。試合中に選手に質問を受けたら、英語で答えなくてはいけないし、レフリー同士でコミュニケーションを取る時も英語を使います。

日本の審判員の技術は高いと認められていますが、英語がもっとできれば、世界的にも地位がもっと上がっていくのではと言われています。もちろん日本の国際審判員の方々はほとんど喋れますが、私はまだまだですね。

2008年10月に、初めてフィリピンの国際大会に行きました。アジアユースの女子(17歳以下)の大会でした。試合で吹くこと自体は問題はなかったんですけど、他のレフリーとうまくコミュニケーションをとるのが、やはり難しかったです。聞き取れるんですけど、相手に伝えるのが大変ですね。今は英語の勉強が一番の課題です。

ニチジョの時のことを教えてください。

ニチジョでは、バレーボール部に入りました。入学前から、バレーボール部は全国から精鋭が来るので、レベルが高いだろうとは思っていましたが、それは承知の上で言わば勉強のつもりで入りました。1年生の時はレギュラーチームではなかったけれど、6人制のプレイヤーとしてやっていました。

当時は上下関係も厳しく、私は中高ではあまりそういう関係を経験してこなかったので大変でしたけど、今思えば社会勉強にはなりましたね。言われたことだけじゃなくて、上級生が求めるものを先に考えて行動するとか、気を使うとか、気をまわすとか、そんなことを覚えました(笑)。

でも、個人的に私の技術ではもう限界かなと思いました。それで2年生の時に、マネージャーになりました。元々バレーボールについていろいろ知りたいなと思っていたので、裏方になることには全然抵抗がありませんでした。

2年生や3年生の頃は、マネージャーとして練習のお手伝いや練習ゲームの審判をしていました。4年生なると、チームの行動を把握したり、大会の申込とか事務的なこともやりました。その頃は審判員になろうという気持ちは全くなく、マネージャーの仕事の1つとしてやっていました。

大学でマネージャーになって良かったことは、裏からバレーボールの世界を見られたことです。特にチーム作りに関する様々なことが面白かったです。その経験が、後にバレーボールの指導者になったときにすごく役に立ちました。

今の将来の夢はなんですか?

北京オリンピックでは、日本人の方がバレーボールの試合の笛を吹かれていました。私もいつか、オリンピックで笛を吹けたらと思っています。オリンピックはなんと言っても一番大きな大会ですから。ロンドン?それは無理だと思いますが、いつか実現できるように頑張りたいと思います。目がついていけなくならないように、なるべく高いレベルの試合を見るようにしています。審判員の定年は55歳です。まだまだ上を目指せるので、やりがいがあります。

私は教員でもあるので、審判員としての経験を少しでも生徒に還元できればと思います。アジアユースの大会に行った時、日本チームの練習風景を見ていて、「これはできそうだな。」って思うと、日本に帰ってから学校でその練習を実行したりしています。そういう意味では、いろいろ還元できることもあるので一石二鳥です。

ニチジョ生にメッセージをお願いします。

私は、ずっと教員になりたいと思っていたので、迷うことなしにこの道を進めました。たぶん今の人たちは、何をやりたいのかいろいろ探りながらなんじゃないかなと思うんです。どこかでそれは必ず見つかると思うので、大学4年間は、いろんなことをやってみるといいと思います。私も教員になってからはいろいろありましたが、私にはバレーボールというものがあってラッキーだったなと思います。