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フリー・インストラクター

杉田 亜紀(2002年度・舞踊学専攻卒)

フリー・インストラクター


教えることは、自分が勉強することだった。

舞踊専攻1期生の杉田さんは、在学中に「ポコペン舞子(ぶす)」というグループでダンス活動を始めました。卒業後もアルバイトをしながらダンスの活動を続け、現在はインストラクターとしてバレエやヨガを教えています。
<2010.07収録>

卒業して、8年?

そうです。わたしは早生まれなので29歳ですけど、もう秒読みで30歳になろうとしています。

今はどんな仕事をしていますか?

フリーのインストラクターをしています。スポーツクラブなどと契約して、ヨガやバレエのレッスンを受け持っています。

卒業してからは?

ダンスの活動を続けながら、大学時代に始めたテレアポ(テレフォンアポインター)のアルバイトをやっていました。でも1日中電話を取ったりパソコンの画面を見ていると、肩は凝るし体がムズムズしてくるので、やっぱり体を動かす仕事をしようと思い、卒業して半年後くらいにオーディションを受けて、インストラクターの派遣会社に登録しました。

半年くらい待つと仕事が来て、フィットネスクラブでバレエのレッスンを受け持ちました。派遣でインストラクターを1年半くらいやっていましたが、フィットネスクラブが直接契約の人に切り替えたので、「もう更新しません。」って言われてしまいました。

派遣の仕事はあまり来なくなり、そのうち登録しているだけになってしまいました。

それでどうしました?

仕事をしたくても、バレエだけではレッスン枠自体が少ないので、もっと幅を広げなければと思いました。ちょうどその頃ヨガブームで、ヨガスタジオがあちこちにでき始めていたので、研修を受けて、アルバイトでホットヨガのインストラクターを始めました。汗だらだらのなか自律神経をおかしくしそうになりながら、2年ほど前にお店が閉まるまでやっていました。

ヨガのインストラクターを始めてしばらくして、ダンスで共演した人に「今度新しくできるエステサロンでアルバイトの仕事があるので一緒にやらない?」って誘われました。エステって普通はされるがままじゃないですか。でもそのサロンでは代謝をあげるため、お客様に簡単なバレエのエクササイズをしてもらうということで、私たちがそのエクササイズを受け持ちました。

青山の豪華なサロンで、お客様も富裕層をターゲットにしていました。床暖房のレッスン室には、バレエのバーもあって、お客様がいない時は、私たちはそこでストレッチをしていました。そこは時給もちょっと高めでしたが、肝心のお客様があまりいらっしゃらず、結局1年とたたずにつぶれてしまいました。

今はどんな感じですか?

フリーのインストラクターとして、都内のタレント養成所で、所属している人にヨガのレッスンをしたりしています。あと、祐天寺にあるスポーツクラブで、バレエとヨガを教えています。

そのほか二子玉川のダンス教室でも、週1回教えています。そこは学生時代に友達から紹介してもらったところで、卒業してからずっと続けています。小さい時からずっと通っている生徒が多く、その教室からニチジョやお茶の水女子大に行ったりしています。私は子どものクラスの担当ですが、受験用のクラスの振りを作ったりもします。

フリーのインストラクターと、アルバイトではどう違います?

フリーのインストラクターでスポーツクラブと直接契約し始めた時と、ホットヨガなどのアルバイトをしていた時期は重なっていて、アルバイトの仕事が減ってきて、完全にフリーだけになった時、「自分はもう独りなんだ。」という感じがしました。

アルバイトの時は時給は安かったけど、みんなで愚痴を言い合ったり、困っていることをお互いに話せたりして、仲間意識もありました。フリーになると全くの個人事業主なので、お客様との会話はあっても、お店のスタッフに挨拶されるだけで一緒に売り上げを伸ばしていくような仲間もいません。

また時間が自由なので、やりたいことには時間を向けられるんだけど、いざ実際になってみるとやっぱり心細くて、「これからは、ちゃんと歩いていかないと。」と思いました。その頃から、教えるということにプロ意識が出てきたんじゃないかと思います。

仕事はどうやって探すのですか?

私の場合は、ほとんど人からの紹介でオーディションを受けて、ということが多いですね。

普通に生活はできていますか?

昔はたくさん仕事があったので、お金の余裕はあったんですけど自分の時間がありませんでした。最近は担当していたレッスンがなくなったりして、時間はあるけどお金のほうはちょっとピンチです。余裕があった頃の貯金でなんとかなっていますが。

なぜレッスンがなくなってしまうの?

やっぱり不況の影響だと思います。お客様と築いてきた人間関係も、現場を見ていない人の意見でビシッと切られちゃったりします。契約を切られる理由として、契約先から身に覚えがないことを一方的に言われたこともあり、そういう時はちょっと人間不信になります。

不思議なことに契約を切られる時は、「やめてください。」って言う人が、私には同じに見えるんです。普段はニコニコしていた人でもその時は、心が完全にシャットアウトされていて、みんな同じ目をしていました。今でも更新の時期になると、契約が更新されるか、やめさせられなくてもコマ数が減ってないか、ドキドキします。

この仕事をやっていて良かったことは?

人に何かを教えるということは、自分も勉強することにもなるので、その点はいいですね。どういう言葉を掛けたら相手はどう動くのかとか、からだの動きを見て「その人に足りないものは何だろう?」って考えたり、今まで気づかなかったことがわかったりします。そういうことは、自分自身のダンスの確認にもなります。

ダンスはいつから?

中学校まで、バレエとモダンダンスをやっていました。実家は和歌山県で、高校から寮に入り埼玉県の自由の森学園という学校に行きました。そこは合唱に力を入れていて、テストがなく、選択授業では食育として屠殺があったり、美術では染色や木工を選べたり、先生をあだ名で呼んでいるような自由な雰囲気の学校でした。

学校はとにかくミーティングの時間が多くて、何かにつけて集まって徹底的に話し合いをしていました。寮の冷蔵庫の物がなくなった時も、みんなで夜中まで話し合いました。私は人見知りがすごくて、初めての人と話す時はいつも緊張していたんですけど、あの学校に行ったことで自分が変わったような気がします。

高校時代の友達とは今でも仲が良くて結構会います。バンドをやっている友達がいて、私もツアーについて行き、バックで踊ったりします。高校はあまりに山奥なので、バレエ教室に通うのはあきらめ、部活で中国舞踊をやっていました。太鼓や扇子を持って踊ったり、茶碗を頭にのっけてクルクル回るようなやつです。

ニチジョに行こうと思ったのは?

大学でもダンスがやりたいと思って、大阪芸大とニチジョに見学に行きました。日芸も行ったのですが、ちゃんと調べてなくお休みで入れませんでした。大阪芸大はキャンパスが広く、雰囲気が自由の森に似ていて良かったのですが、カリキュラムを見比べたら、ニチジョの方がスペイン舞踊とかいろんなジャンルのダンスがあったので、ニチジョを受験しました。

推薦で落ちて、一般入試で入りました。実技の3分間の即興で何をすればいいのかわからないから、高校の体育館で雪の降るなかひとりで練習しました。情報もなく習っている先生もいませんでしたので、その時あるものだけでやっていました。

大学の時は、仕事についてどんな風に思っていました?

仕事のことは全く考えていませんでしたが、子どもの時から、教えるのはしたいと思っていたんですよ。ただ卒業してすぐ教えるのじゃなく、最初に舞台などで踊る仕事をやってからと思っていたんですが、表現活動として踊っていてもお金にはならないので、結果的には教える仕事をずっと続けています。

シュウカツはしませんでした。ダンスしかやってこなかったので、普通の就職は無理だろうと思っていました。例えば営業の仕事をするにしても、ダンス以外に興味もないし、興味がないものを売るのはぴんとこなくて、自分がそういう場所で働くイメージができなかった。あの頃は、安定とかそんなことは考えていなかったし、必要としていませんでした。

教職は取りました。教員になりたかったからというより、資格として取っておこうと。でも私は運動音痴で球技とかは全くできないから、体育の教師は無理だと思います。実習に行った子から、「朝一番に学校に行ってお茶出ししていた。」って聞いたんですけど、私は全然そんなことにも気が回らず、自由の森の実習では逆に先生にお茶をいただいていました。

大学生の時、「ポコペン舞子」というダンスユニットで踊っていましたね?

はい。「ポコペン舞子」ができたのは、2年生の終わり頃だったと思います。トムソン先生の授業で一緒だった、メンバー7名が集まって踊るようになりました。

3年生の時、初めてセッションハウスで踊りました。それ以来、セッションハウスには度々出演させていただきました。最初に踊ったのは「イー・ジー・ジー」という作品で、踊りの最後に卵を口から出したりするやつです。夏休みに、トムソン先生がカナダのフリンジダンスフェスティバルで踊るので、私たちも一緒に応募することになり、トロントに行きました。

カナダでの反響は?

飛行機の中で、「詰まらなかったら、物とかが飛んでくるのかな。」って話していたのですが、お客さんの反応は意外と良くて、公演が終わってからも話しかけに来てくれたりしました。でも全然英語ができないので、やりとりは全部先生がやってくれました。照明さんとの打ち合わせとかも、ほんとに先生がいなかったらどうなっていたか。

カナダには2週間ほど滞在して、帰りにニューヨークに寄ってレッスンを受けたりミュージカルを観てきました。カナダはのんびりしていて居心地が良かったのですが、ニューヨークは東京みたいに騒々しく、みんなぐったり疲れてしまいました。あの頃は、ポコペンの活動がいちばん勢いがありました。

どんな踊りを目指していたの?

「踊りを知らない人にも、楽しんでもらえるような作品を作っていきたいね。」って、みんなで話していました。今まで積み重ねてきたダンスをベースに演劇的な要素も取り入れて、ダンスパフォーマンスのようなものを目指していたと思います。

コンテンポラリーダンスという意識は?

ありました。私たちのやっているのがコンテンポラリーだって思っていました。「色んな人に自分達のダンスを知ってもらいたい。」って話していました。だからデザインフェスタで踊ったり、中華屋さんの前で踊ったり、普段ダンスを観ないような場所で踊ることで、「ダンスで世の中に何が問えるか?」を追求しました。

でも、実際に千葉の中華料理屋でやった時は、灼熱のアスファルトの上ではだしで踊って、全然人が通らないから「ただ勝手にやってる人」になってしまいましたが。

「コンテンポラリーってどういうの?」って聞かれてもあんまりうまく説明できず、その頃「コンドルズ」がテレビに出て有名になっていて、生意気にも「私たちのやっているダンスは、コンドルズとは違うよね。」って冗談を言っていました(笑)。

名前がみんなに知られるようになりましたね?

なぜか名前が先走っちゃって、いろんな人が「ポコペン舞子」という名前だけは知っているという風になった。「作品をどんどん作らなきゃ。」と、必死になってネタを絞って、やっと作品を生み出して、踊り終わったらまたすぐに次、という感じでした。再演で引っ張ることも頭にないし、もう「どんどんやれ!」って先生も言う...。

私はほんとにネタとか出せなくて、「私がここに居てもいいのかな?」って悩んだりすることもありました。ネタ出せる人はどんどん出していって、その人たちもさすがに出なくなってきて、それでも「作らなきゃ。」っていうのがみんなのストレスになってきて、だんだんお互いを思いやれなくなったり、お互いにぶつけるものすらなくなって、本番を即興でつないだりしていました。

卒業する頃、ダンスでいけるんじゃないかという思いは?

「いけるんじゃないか?」ではなく、逆に「こんなに名前だけ先走っちゃってどうする?」みたいな、戸惑いのほうが強かったですね。

先生に「制作をつけろ」って助言され、紹介もしていただいたんですが、「自分たちがお互いのことを思いやれなくなっている状況の中で、制作の人が入って来てもうまくいかないんじゃないか。」ってみんなで話し合い、制作の話は実現しませんでした。

ポコペンは、誰か一人が決定権を握っているわけじゃなく、全てをみんなで話し合って決めていたので、それもなかなかむずかしかったですね。

働き始めると、みんなの練習の時間を合わせられなくて、セッションハウスの単独公演の時は、スタッフ見せの段階になっても構成すらできてなく、あるものだけを単発で見せました。もう雰囲気が悪すぎて、セッションハウスの伊藤さんに「あなたたち少し時間あげるから、お互い言いたいことをぶつけ合いなさい。」って言われました。

で、解散?

そんな感じで、ちょっと疲れちゃったんですね。解散とは言わずに、「長期休養。期限はわかりません。」みたいな感じでした。

卒業して2年ぎりぎりいかないくらい。最後の公演は、アサヒアートスクエアでした。公演が終わって、これでもうおしまいってなった時に、「珍しいキノコ舞踊団」の伊藤さんが観に来てくださっていて、「色々あると思うけど続けていってね。」って声をかけられました。さすがにその時は、「長期休養に入ります。」とは言えなくって。「色々ある...」って、「外から見てもやっぱりわかるんだな。」と思いました。

そう言えば、「珍しいキノコ舞踊団」に似てるって良く言われていて、「私たちはキノコじゃないから。」「あっちはかわいいけど、うちらは舞子(ブス)だし。」とか言っていました(笑)。

この間、「セッションハウス」の『日女体祭り』で、「ポコペン舞子」として踊りましたね?

はい。みんなで一緒に踊るのは6年ぶりでした。活動を休止していましたが、「セッションハウス」から企画をいただき、またみんなで集まって踊ることになりました。

久しぶりにみんなで踊ってどうでした?

最初は「どうなるんだろう?」って、正直不安でした。6月20日の本番に向けて、2月の大雪の日に、みんなで集まって最初のミーティングをしました。まず、昔の作品の再演にするか、新作を作るかで話合いました。「あの頃の振りを、今のからだで踊ってみたらどうなるんだろう?」とか、「ニュアンスを変えていけば逆に新鮮に感じるんじゃない?」とか...。

練習では、昔のビデオを見て振りおこしのようなこともしてみました。でも実際に動いてみると、私は今のからだで昔の振りを踊ることにすごく違和感を感じたんです。逆にそれが楽しいっていう人もいました。リハーサルを進めていくうちに、だんだん新しいことも入ってきて、「これはあの時のに近いね。」とか、「曲は同じのを使おう。」とか、ところどころに昔のことが出てはくるけれど、最終的には新作になりました。

今回は振りを作っていても全然ぎくしゃくしていなくて、働いたからなのかどうかわからないけれど「みんな大人になったな。」と思いました。前から家族みたいな感じで、それぞれのくせとか、何かしたときの反応とか、細かいところまで知っていたんですけど、6年ぶりに会ってもそういう信頼関係がすごくあって、同じように身をゆだねられるというか安心感がすごくありました。

私は会計係だったんですが、場所代を計算すると4万とかそのくらい。世田谷区が管理している安い場所を借りて、47回集まっているんです。「15分作品なのに、こんなに時間取ってまだできないって、ほんとに遠回りな人たちだね。」って言い合っていました。

なぜ時間がかかるの?

誰かひとりが構成を組んでやればもっと早くできると思うんですけど、「これがいいんじゃない?」、「あれがいいいんじゃない?」、「じゃこの人のどういうからだが見たい?」、「今まではこうだったから今回はちょっと違う部分を見たい。」、「じゃその違う部分は何?」という風に、みんなでプロデュースしあいながら、ひとりひとりにたっぷり時間を取ってやるんです。

そして、みんながいいと思うものを最終的に振りに使っていく。無駄な時間や、捨てるものもいっぱいあります。たぶん、自分たちのなかで、新しいとか新鮮だと感じるものを作ろうとしていたんだと思います。以前からそんな感じで、不器用な人たちの集まりが不器用な方法を取っているからすごい時間がかかるんです。

これからの活動は?

まだ決まっていません。近々ミーティングして、今後について話そうということになっています。

個人としての夢は?

結婚してとか...、嘘(笑)。ないですよ。でもみんなで会うと、その話題がすごく出ます。ポコペンのメンバーは、まだ誰も結婚していないんです。私も子どもはほしいので、最終的には結婚しないとですね。でもダンスは続けたいんです。ダンス反対の人とは結婚しません。なんて、選んでいられないのかも知れないですね。

あと、教えることはずっとやっていきたいです。家でスタジオ作ってというのが理想ですが、自分で場所を借りて生徒を抱えてやる自信はまだありません。それを始めたら、そこを維持するために力をいれなきゃいけないし、本来ダンスの活動をやりたいのに、お金を稼ぐことに時間を割かなきゃいけなくなったり、別のストレスもあると思うので。

ポコペンでも、「自分たちのスタジオを開きたいね。」って話したりするんです。そしたらリハーサルでも大荷物持って移動しなくてすむし。

自分達が踊るのはお金のためじゃない?

もちろん舞台に出てお金をいただけるなら、それは嬉しいです。私たちはそこに行けなかっただけだと思う。6年前も、たぶんみんな舞台でお金を稼ぎたいと思っていて、しかたないから生活のために他の仕事をしていました。

でも今となってみると、純粋に自分の踊りだけで生きるのは無理なんじゃないかとも思います。だって、かなり名前が知られている人でも、教えたり会社員をしながら振り付けをしたりしてるじゃないですか。やっぱり両方やっていかないといけないのかな。

ニチジョ生にアドバイスを。踊り続けるとしたら?

最近思ったのは、アルバイトじゃなくても踊り続けられるということかな。この間一緒に共演して、正社員として働きながら、ダンスの公演に出たりしている人がいました。「そういうこともできるんだ。」と思いました。

私は「働いたら絶対踊れない。踊るためには、時間の融通のきくアルバイトじゃないと。」って思っていましたが、リハーサルは夜にやることが多く、アルバイトでも夜のクラスを担当しちゃうとリハーサルに出られなかったりするので、結局みんなに合わせて昼間に働いたほうがいいのかなって最近は思います。

私も「社員になったら、ダンスは趣味や習い事になっちゃうんじゃないか。」という不安がありました。仕事で責任が出てくると残業とかもあって、ダンスにモチベーションを持っていくのもむずかしいんじゃないかと。

逆にアルバイトは、責任のないぶん簡単に首を切られたりもします。ダンスがあるから仕事はこれでいいと思っても、ダンスを自分の核として持っていないと精神的につらいですよね。フリーのインストラクターになって、教えることにも責任を持ってやっていくようになって、仕事をやりながらでも自分のダンスは続けていけるんだと思いました。