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専門・サービス系
スタジオマン

新井 梨里子(2002年度・舞踊学専攻卒)

写真スタジオ勤務


今を一生懸命生きれば、きっと未来は明るい

新井さんはカメラマンを目指していて、今は撮影スタジオで働いています。ずっとダンスをやっていた新井さんが、どうしてそうなったのか聞いてみました。
<2011.07収録>

スタジオマンってどんな仕事ですか?

スタジオで、撮影のためのライティング(照明)を組んだり、カメラマンのアシスタントとして撮影の補助をしたりする仕事です。私が働いているのは貸しスタジオなので、色んなカメラマンが撮影に来て、それぞれの仕事のやり方が見られるので、自分の勉強にもなっています。

貸しスタジオは、カメラマンになるためのステップアップの場として、何年か働いて辞めていく人がほとんどです。給料は、経験や技術の熟練度によって変わってきますが、今のスタジオは時給制です。

どうしてスタジオマンになろうと思ったの?

26歳の時に、一念発起してカメラマンを目指そうと思い、夜間の写真学校に1年間通って写真の基礎を勉強しました。プロのカメラマンになるには、誰かの元でアシスタントとして修行したりするのですが、経験もなくいきなりアシスタントになるのは難しいので、写真学校を卒業して、まずスタジオで経験を積もうと思いました。

スタジオに面接を受けに行きましたが、27歳の私を採用してくれるところは中々なくて、3カ月間探し続けました。今のスタジオの募集の時も「25歳まで」と書いてあったのですが、「頑張りますから。絶対後悔はさせません。」って、必死にお願いしてなんとか入れてもらえました。

入ってみてどうでした?

私と同時に4人採用されたのですが、マネージャーには「全員が残れると思わないで。」と釘をさされました。しばらくして2人辞めさせられました。スタジオマンは当時10人ほどいて、1人を除いてあとは全員歳下でした。

写真学校を卒業したと言っても、実際の仕事のことは何もわからないので、いちから教えてもらいました。仕事の合間にレクチャーと称して先輩が指導してくれるのですが、その先輩は私より3つ年下の女性で、教え方はめちゃくちゃ体育会系でした。

基本的なライティングの組み方とかを教えてもらうのですが、一度教えてもらったことが次にできないとかちょっとのミスでも、もうぼろくそに怒鳴られ、「先輩は鬼だ。」と思いました。

朝スタジオに行き、「2スタでレクチャーやるから。」って先輩に言われると、みんな真っ青になって震えあがりました。制限時間内にセットを組めるかとか、色んな技術テストがあって、それに合格しないと時給が上がらないんです。

今は仕事に慣れた?

2年やっているので今はそんなに緊張しなくなりました。ハードな仕事だから辞める人も多くて、入って11カ月目には、気がついたら私が一番古株になっていました。

せっかくスタジオで働いているので、空いている時にスタジオを使わせてもらい、スタジオマンや友達をモデルにライティングを試してみたり、雑誌でかっこいい写真を見つけると、どういう風に撮ったのか研究したりしています。

どうしてカメラマンになろうと思ったの?

元々は、ダンサーを目指していました。小さい頃から、歌ったり踊ったりすることに興味があって、高校でダンス部に入っていました。そこでダンスにハマって、大学もそっち方面に行こうと思い、バレエスクールに通い始めました。小・中学生に混じって基本から始めたのですが、身体も堅いし、周りから見たらなんか痛い感じだったと思います。

ミュージカルコースがある大学に行きたかったのですが落ちてしまい、ニチジョに入りました。舞踊学専攻の1期生です。予想していたけれど、ダンスの授業は大変で、特にバレエは小さい頃からやっていた人と比べれば差が明らかで、他の子は軽々とジャンプしてターン、そしてまたジャンプみたいな感じなのに、私はみんなに付いていくだけで精一杯でした。

ミュージカルがやりたかったけれど、歌も演技もやっていたら大変なので、途中からダンス1本に切り替えました。大学に入ってすぐ、青山にあるダンススクールに習いに行き、そこで教えていた、コンテンポラリーダンサーの安藤洋子さんに出会いました。

安藤さんの体の使い方や振り付けは面白くて、私に取っては全てが目から鱗の世界でした。俄然ダンスが面白くなって、「これが私の踊りたいダンスだ。」と、以来コンテンポラリーダンス一筋になりました。安藤さんに習っていたのは2年弱でしたが、私にとっての影響力は大で、彼女がドイツのフォーサイスカンパニーに行ってしまった時は心の師を失った気持ちになりました。

その頃は、将来何になろうと思っていた?

コンテンポラリーダンサーです。でも安藤さんが行ってしまい、他に入りたいカンパニーもなかったので、「どうしたらいいんだろう。」と思っていました。ダンスをやっていても、先は全然見えていなかった。

大学2年の頃、研究室でシルビィ・ギエムの映像を見ていた時、同じ研究室のヨッちゃんが話しかけて来て、「一緒になんかやろうよ。」ってなったんです。5人でグループを作って、教室で発表したり、授業が終わってからダンスホールで踊ったりしていました。研究室の先生も応援してくれ、色々アドバイスもいただきました。

そのうち他のメンバーも加わって新しいグループを作ることになり、学食でグループの名前の案を出し合いました。誰かがブスって言い始めて、「舞う子って書いてブス、それいいじゃん。」となり、「ポコペン舞子」の活動が始まったんです。ヨッちゃん、ケイちゃん、アキちゃん、アヤコ、メグ、カオちゃん、私の7人でした。

ピナ・バウシュとかがみんな好きだったので、私たちもただ踊るだけじゃなく、セリフがあったり、ストーリーチックなものがいきなり始まったり、かと思ったら踊ったり、そんな感じでやっていました。踊りの最後に口から卵を出す「イー・ジー・ジー」という作品を作って、セッションハウスというアートスペースで踊りました。振りはみんなで作っていたので中々まとまらず、作品に仕上げるのが大変でした。

みんなで放課後に集まって練習するのですが、その頃の私はめちゃめちゃ真面目だったので、メンバーが時間通りに集まらないとイライラし、練習がだらけたりするとストレスが溜まりました。そして、1年しないうちにグループから離れました。

卒業してからは?

ダンサーになることは決めていたんですけど、その前にまず「どうやって生きていこう?」の状態でした。普通の仕事はできないし、やるつもりもない。かと言って、ショーダンサーにもなりたくない。「とにかく自分の踊りを見つけなければ。」の一心で、アルバイトをしながらダンススクールに通っていました。

ある新人発表の場に、ソロで応募してみました。自分なりに踊りのイメージはあったんですけど、作ってみても全然面白くなくて、自分で見て「これじゃ駄目だ。」と思いました。

私はまず動いてみて、そこから流れで踊るんです。自分の体に聞くみたいなところもあったので、体が動いてくれないと振りができないんですよ。作っては消して、作っては消してってやっていたら、ほんとに自信がなくなり「こんなんじゃ人に見せられない。」と思いました。

自分のやりたいこととできることに、ギャップがあった?

そうなんです。公演直前に、主宰者の方に「すいません、作品が作れませんでした。出演をやめさせてください。」って、泣きながらお願いしました。

主宰者の方はびっくりして、「即興でも何でもいいから出なさい。そんなに深刻に考えないで。」って言ってくださったんですけど、「即興で見せられるものなんて踊れない。」と思って...。

結局、最後まで作品にすることができなくて、公演に穴をあけてしまいました。プログラムには載っているので、お客さんもびっくりです。主宰者の方にはただただ謝るしかありませんでした。

その頃からだんだん、ダンスを踊ることが自分にとって楽しいものではなくなってきました。卒業して3年目の頃、ある舞台に出させていただきました。「これは私の踊りたいダンスじゃない。」と思いながら舞台で踊っていて、「次も出てね。」って言われても、「私はもう出られない。」と思いました。

踊りのテクニックは大学の頃よりあがっているし自信もあるのに、自分のダンスを見つけられないんです。踊りたくないものを踊っているのは苦痛だし、かと言って自分でも作れない。レッスンを受けていても、「なんか違う。」と思って気持ちが入らないんですよ。

バイトとダンスを詰めてやりすぎて身体がおかしくなったりもしました。バイトに疲れて「もう今日はレッスンやめよう。」となって、ダンススクールにも行かなくなってきました。

そういうことが続いて、踊るためにアルバイトをやっていたのに、踊りよりバイトのほうが長くなって、卒業して4年目には、ダンスがなくなりバイトだけが残りました。

ダンスがなくなってどうしようと思った?

どうしていいかわからなかった。「この先どうやって生きていったらいいんだろう?」と思いました。2ヶ月くらい、ダンスもバイトも、何もしていなかった。朝遅く起きて、用意されたご飯を食べて、テレビを見てだらーっとして...。家に籠って誰とも話さず、ずっと悶々としていました。

本を読んだり、雑誌を見たり、絵を書いたり、何かきっかけを見つけようと探し続けました。時々墨を摺って、心に浮かんだことを筆で書いてみたりもしました。墨を摺っているとなぜか心が落ち着くんです。

両親はふたりとも働いていて、夜になると心配そうに私の部屋を覗きに来ました。あまりにも嫌な思い出なので、その頃のことはあいまいにしか思い出せません。

そこからどうやって抜け出したの?

落ち込んだ時に、良く自分のアルバムを見ていました。ほとんど父が撮った写真です。赤ちゃんの頃から幼稚園ぐらいまで、その頃の私はすごく楽しそうでした。「写真っていいな...。」と思いました。

25歳になった頃、ふと立ち寄った本屋で、ティム・ウォーカーという人の写真集に出会いました。表紙は、寂れた螺旋階段に青いドレスのモデルが裾をなびかせて座っている、ちょっと不思議な写真でした。中を開くと、インドかどこかの小さなお城のような建物から赤い花が垂れていて、その前にエメラルドグリーンの像が立っていました。「写真ってすごい...。」と思いました。

1年半くらい、写真屋さんでアルバイトをして、そこで写真の専門学校に行っている人と会い、私も行きたいと思ったんです。目標が見えてきたので元気も出てきて、実家を出て一人暮しを始めました。

これからの計画は?

あと5年でカメラマンになっている予定です。それは決まっているんですけど、なるまでの間が見えていない。傍からみたら危なかっしいと思いますけど、根拠のない自信だけはあります。

今のスタジオは、10月で辞めるので、問題は次です。今考えているのは、一つはカメラマンのアシスタントとしてどこかで働く。誰に付くかとか具体的なことは何も決まっていません。もう一つはワーキングホリデーで英語を勉強しに外国に行く。今はどちらかと言うと、ワーキングホリデーの方に心が傾いています。年齢的に行けるのは今しかないし、そのほうが危険な感じがするから。

危険な感じって?

家に籠っていた頃、岡本太郎の「強く生きる言葉」という本を読んで、ずいぶん勇気をもらいました。その中に「二つの道に迷ったら危険な方に行け。危険だと思う道は自分の行きたい道なのだ。」という言葉があって、「確かにそうだな。」と思って。だから行ったほうが危険だと思うんです。

今の、自分の職業は何だと思いますか?

今の職業は、スタジオマンかな...。

もし外国に行ったら、自分をどう紹介する?

もとスタジオマンで、これからカメラマンになる人。そんな職業ないか(笑)。

そこは自分で自分をカメラマンって言い切れればいいんじゃないかな。外国で自分を謙遜して言ってもいいことは何もないから。ところで、どんな写真を撮っていきたいの?

それはまだ見つかりません。でも私は、普通に暮らしていたら見られないような非現実的なものに興味を引かれるんです。踊っていた頃も、照明や舞台美術が気になっていました。

写真はダンスを作るのに似ているけれど、時間の流れがありません。写真を撮るようになってから、1枚のビジュアルというかシーンを思い浮かべるようになりました。

この間友達と一緒にご飯を食べていて、彼女が踊っているソロのイメージが突然浮かびました。「髪の毛がオレンジで、ドラム缶の上に座っている。」とか、「茶色の木のテーブルの横に、メイド服を着た女がうつむきかげんに物を上げ下げしている。」とか...。今だったら誰かに振り付けられるかもしれません(笑)。

そういうイメージを、ネタ帳みたいのに描いてストックしています。ティム・ウォーカーのような、ちょっと現実にあり得ないような写真を撮ってみたい。これからプロとしてやっていくなら、何かやりたいと思った時にその方法を知らないと困るから、今は自分の引き出しをたくさん持っておこうと思っています。

自分が歩いてきた道を振り返って?

今までの人生に、後悔はないです。長い道のりだったけど、この道を来なかったらカメラマンになりたいと思わなかったかもしれません。ダンスを集中してやっていた時も今に繋がっているし、ダンスで学んだことも写真で表現できると思うから無駄ではなかったと思います。

最後に、ニチジョ生にメッセージを。

この間、ニチジョ生のソフトテニス部の試合を見に行って、「この一瞬にかけろ!」という横断幕が掲げられていました。みんなこれ以上出せないくらい大きな声で応援していて、「ほんとにこの一瞬にかけているんだな。」と思いました。あれくらい今を一所懸命生きられれば、きっと未来は明るいと思います。

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