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生産系
農業・イベント企画運営

菅野 瑞穂(2009年度・健康スポーツ学専攻卒)

農業株式会社経営


きぼうのたね、蒔いてます。

菅野さんは大学卒業後、実家に戻って農業を始めました。翌年、東日本大震災が起こって、原発事故により農業を取り巻く環境が一変しました。そんな中、会社を立ち上げ、震災への取り組みを伝える農業体験イベントを始めました。原発事故から5年が経った現在の状況を聞きました。
<2015.10収録>

前回のインタビューはちょうど5年前の今頃でしたね?

あの時は卒業して1年目で、農業を始めたばかりでした。翌年の2011年1月、福島県の農業者団体の主催でニュージーランドに研修に行ってきました。ニュージーランドの農業はなんて言うか、根本的な話をすれば完全に産業なんですよ。
初期投資で銀行からパンとお金を借りて、一つに集約して大規模化して、90パーセント以上が輸出用として出荷するといったような。とにかく全てがビジネス志向で、日本の代々続いている昔ながらの農業を守るような意識とは全く違っていました。
「日本も補助金に頼らず自立できる農業を目指さないと。」と思いました。既にそうしている日本の農業者もたくさんいるんですけどね...。

東日本大震災の時は何をしていました?

ニュージーランド研修の報告会で、地元の農業関係者と安達太良山の麓の温泉旅館にいました。私はスライドの準備をしている時で、突然激しい揺れが襲って来て、色んな物がボロボロ落ちてきて「建物が崩れるんじゃないか。」と思いました。
外に出て車のナビでニュースを見たら、津波の映像が流れていました。報告会は中止になって、みんなクルマに乗って帰りました。すごい雪が降ってきて、戻ったら私の家でもいろんなものが崩れ落ちていて、跡片付けをしていました。
原発が爆発したというニュースが流れたのは、それからすぐだったと思います。私は、それが自分の生活にどういう影響を及ぼすのかほとんど想像できませんでした。でも私の親やチェルノブイリ事故を知っている世代にとっては、「これは大変なことになる。」と思ったようです。
爆発の数日後に雨が降りだしました。私は、ハウスのビニールを降ろしに外に出て行った記憶があります。冬場はハウスの土に水分を含ませるためにビニールをあげているのですが、少しでも土を守ろうと思いました。雪はもう残ってなくて地面は露出していました。
いま思えば、その時には既に線量が相当高かったと思います。雨や雪の時が特に線量が高くなると言われていて、気流に乗って放射能が流れて来て、事後報告では10マイクロシーベルト以上はあったようです。

原発の建屋が吹っ飛んで、ますます深刻な状況になっていきましたね?

16日に私の母校の体育館に、浪江町からの避難者がやって来ました。最初は原発からかなり離れた集会所に避難していたんですが、実はその地区が一番線量が高かったようで、国の指示でまた移動して「ここはダメ」「ここもダメ」と二転三転した末に、東和地区にたどり着きました。
放射能は目に見えないので、どこが線量が高いなんてわからないじゃないですか。放射能から逃げてきたということで、地元の人は「車に付着してるんじゃないか。」とか、そういう心配もするわけですよ。支援物資がすぐには届かなかったので、私も家にある古着を持って行き、炊き出しを手伝ったりしました。
間もなく隣の川俣町も避難指定区域になって、「二本松市民も自主避難した方がいいんじゃないか?」と周りで騒ぎ始めました。私も「この先、果たしてここでやっていけるのか。」と不安になりました。連日、原発事故関係のニュースが流れて、福島にいるだけで息が詰まりそうになるので、3月の末に東京の知り合いのところに行きました。

避難する人がたくさんいましたね?

新潟県が福島県からの避難者を受け入れていると聞き、私も紹介していただいて佐渡ヶ島に行ってみました。けれど向こうでは何もすることがなく、旅館には避難してきた人であふれていて「ずっとここにはいられないな...。」と思いました。
テレビで「南相馬の人が津波で家族を失ない放射能の被害で仕事もなくなった」というニュースを見て、「自分には家族もいるし土地もある。仕事も全くない状態じゃない。自分よりも辛い思いをしている人たちのために何かできることがあるんじゃないか?」と思い、福島に戻ることにしました。けっきょく佐渡には3日間しかいませんでした。
戻っても何をするべきなのか具体的なことは思いつきませんでしたが、「取りあえず現場で何が起きたのか確かめてみよう。」と思い、南相馬に行きました。震災から1カ月後の南相馬は、皆、放射能から逃れて、人が全くいなくて、わずかに集会所などに残っているだけでした。
南相馬で農民連の人たちと一緒に、集会所に避難物資を届けたりしていて、津波の被害の跡も自分の目で確かめました。「これは本当に大変なことが起こったんだ。」と実感しました。

農業への影響は?

私の住んでいる東和地域は、農業を再開できる、できないで言えば、ギリギリのボーダーライン上でした。いったんは、牛乳も葉物野菜も全部出荷停止になって、「作付けは国の調査を待ってから。」という国の指示が出ました。
モニタリング調査をして、部分的に線量が高いところもあったので「さらに詳しく調査する。」となり、作付けは延期になりました。4月12日にやっとOKとなって、その時点で始めるにはもう遅いんですが準備しました。でもその年の田植えは、私は「本当にやるの?」という感じで全く気がのりませんでした。
「作ってもし基準値を超えたら賠償請求すればいい。」という意見もありましたが、私は「せっかく作るなら、ちゃんとしたものを作りたい。」と思っていました。捨てるようなものなら作りたくないし、どうなるかわからない状況で作るのでは、思いを込められないというかただの作業に過ぎません。

放射能の身体への心配は?

ありました。なので、作業する時はマスクをして帽子をかぶったり、長袖、長ズボンを着ていましたが、5月、6月とだんだん暑くなってくると、そういう意識も少しずつ薄れていくんですよ。ただちに健康被害はないと言われていましたが、ふとした時に「自分も将来どうなるかわからない。」と不安になりました。
他の場所で有機農業をやっている方から、「若者がそんなところで農業やってたらいかん。場所を用意するからこっちにおいで。」という話をいただいて、「本当にここにいていいのか?」と気持ちが揺れました。

それでも福島から出て行かなかったのはどうしてですか?

単純に地元が好きだったのもあるし、農業ってやっぱり地域に根ざしたものなので、「他の場所で農業やるのもちょっと違うかな。」って思ったので。困難な状況の中でも、「みんなでとりあえずどうなるかわかんないけどやってみよう。」という前向きな気持ちが、周りの仲間や親にもありました。
特に周りに自主避難する人がいなかったのは大きかったですね。東和地区は、ほとんどの人がここに残って頑張っていました。逆に、福島市や郡山市の方が自主する人が多かったようです。

その頃に東和地区に移住してきた人は、逃げるどころか、逆に居着いちゃったりしましたね?

それは本当にすごいことだと思います。有機農業をやりたくてこの地域に来たのに、その基盤となる土がほとんど失われている状態で、ここで生きていく選択をしたのは、農業だけじゃなく回りの人との繋がりや自然環境、そういうのを全部ひっくるめて決断したんだと思います。

でも有機農業は土が命じゃないですか?そこに放射能がばら撒かれたら、台無しじゃないですか?

台無しです。とりあえず実態を調べないとわからないので、新潟大学の協力で、水や土の検査、山の汚染の状況を調べました。どこがどのような汚染状況なのか「見える化」をし、それを土台にして、果たしてこれから有機農業が成り立つのか考えました。
そこからわかってきたのは、土を耕すことでセシウムが拡散されて、セシウム濃度が下がるということでした。粘土質的な土と有機質がセシウムを吸着するので、農作物には移行しないということもわかってきました。福島の土の特性と有機の力によって農業が守られたんです。
セシウムは年々減っていて、3~4年目でほとんど検出限界値以下になりました。ただ今でもゼロではなく、微量ですが含まれています。いまだに気をつけなくてはならないのは、山になっている山菜やきのこ、自生している栗や柿などです。
山は大規模な除染はできないので、放射能が降り積もったままです。落ち葉の中の微生物が繁殖して分解されるような、ゆっくりとしたサイクルでしか変化しません。山を研究している人によると、カビが発生することによってセシウムが広がることもあるらしいです。
線量が高いところは伐採するしかなく、でも木を切り過ぎると、今度は里山の原理が働いてちょっとの雨でも山が崩れたりしちゃうんです。この前も飯館村で、表土をはいで詰めたフレコンバック(除染袋)ごと、大雨で流されてしまいました。

作物への風評被害も起こりましたね?

それまで取引していただいていた流通先は、ほとんどキャンセルになりました。米も、大阪に送っていた半分がキャンセルになりました。
一方で、「会社として応援するので野菜を送ってください」とか、「お米を送ってください」という方も現れました。そのおかげで、大阪に行くはずだったお米は九州に届けられました。震災から1、2年の間は、本当にいろいろな方の支援に助けられました。それがなければ心が折れてしまっていたかもしれません。
ただやっぱり最初の年や、2年目は、イメージも先行して福島産の消費は控える方が多かったと思います。いくら基準値以下でも米の中に少なからずセシウムが含まれているわけで、私も自分が子どもがいる立場だったら、福島のものは食べさせなかったかも知れません。
そういう人達を変えるのは難しいので、新たな信頼関係を一から作り直す必要がありました。「応援したい。」とか「福島のものを食べてもいいよ。」っていう人達に収穫物を送ったり、時々首都圏に行って、販売活動をしながら現場の状況やセシウムを減らす取り組みを伝えたりしていました。

そんな中で、会社を立ち上げようと思ったのは?

内閣府の依頼で、福島連携復興センターや福島県内のNPOが窓口になって、東北の起業家を育てようという動きがあったんです。起業のための資金的なサポートをしてくれるということでした。「補助金でやるのはどうかな?」とも思ったんですけど、周りの人に「せっかくの機会だから。」と勧められ、応募しました。
それまでにも夏休みとかに大学の先生や後輩たちを招いて、農業体験をしてもらったり、リンゴ農家の除染作業を見たり、汚染マップを見て福島の農業の現状を共有してもらったりなどの活動はしていました。「会社にすれば、そういう活動ももっとしっかり伝えられるかな。」と思ったし、大学生の時からいつかは起業したいという気持ちもあったので。
自分なりに事業計画書を練って、2012年の7月に福島大学でプレゼンテーションをしました。9月くらいに審査が通って、翌年3月の立ち上げを目指しました。実際に起業した人に話をお聞きしたり、経理のことを勉強したり、2年後、3年後、10年後にどうなっていたいか考えて事業計画を立てました。
ちょうど同じ時期に、旅行会社のHISから「一緒にやりませんか?」というお誘いがあって、震災への取り組みを伝える「エコスタディツアー」をやることになりました。13年の3月に会社が始動しました。主な業務は農産物の販売と農業体験イベント、将来的には農家民宿も考えていました。

「きぼうのたねカンパニー」の誕生ですね?

農産物販売は、道の駅やマルシェでの販売をメインに、通信販売も始めました。知り合いのデザイナーにホームページを作ってもらって、農業体験イベントの告知や農産物販売もできるようにしました。ホームページを見た人から、色んな反響がありました。

どんな人たちが農業体験に来ましたか?

最初は圧倒的に女性ばかりでした。私が女性だからだと思うんですけど、特に同世代の女の人たちがたくさん来ました。高校生や大学生の友達同士で来たり。地元ではそれが新鮮だったらしく「なんでそんなに若い人がいっぱい来るの?」と不思議がられました。
首都圏から来る人が多いと思っていたら、岡山、大阪、京都、奈良、北海道とか、みんな遠くから来てくれるんですよ。福島の震災後の現状を知りたいけれど、福島に行くことに対して不安を抱いていて、それまで行く機会がなかったという人が多かった。
やってみると、震災復興に関心をもっている人たちが来ているので、みな自分の考えをしっかり持っていて、意識の高さに驚かされました。2013年から始めて3年目ですが、再来週も脱穀のイベントがあります。リピーターも多くて、前回の稲刈りで4回目という人もいます。

活動がいろんな雑誌に取り上げられたりして、一時は「時の人」みたいになっていましたね?

皮肉なことに震災が、自分に取ってはタイミングというかチャンスになりました。自分自身、特にすごいことを成し遂げたとは思っていませんし、普通にやってきたことがたまたま周りから評価されたというか、「見てくれていたんだな。」と思います。
でも、メディアに取り上げられるのはちょっとこそばゆいと言うか...。農業は地道な作業の繰り返しだし、べつに大金を稼いでいるわけでもないし、周りには私よりすごい先輩がいっぱいいるのに、いいところばかりフォーカスされて、本当の自分よりずっと先に行っちゃっているような...。
周りから「いつも元気で頑張っているね。」って言われると、そういう自分に嫌でもならざるを得なかったり、いろんな意味でメディアによって形作られた自分がいて、それがやっぱりストレスで、最近は取材もお断りすることが多くなりました。

会社を経営してみて?

会社として利益を生み出すためには、普通に野菜を作っていても駄目ですごい頑張らないといけません。お金が流れる仕組みとか、そういうことを考えさせられました。儲けるだけの農業じゃないとは思うんですけど、会社を経営するにはお金は必要じゃないですか。
経営的にはトントンと言うか、自分の給料を払ってギリギリです。人を雇う人件費まで生み出すのは本当に大変で、研修制度とか新規就農の名目で県の補助金が出るのでそういうのも考えています。
農家民宿を始めるために、事業計画書を作って銀行と何回も打ち合わせしていたのですが、結果的にはうまくいかなくて計画は白紙になりました。そんなこともあって今年の夏は落ち込むことが多く、これからのことを見失う時期もありました。

これからはどうしていきたいですか?

農作物は、道の駅やマルシェ、ホームページからの注文も入ってきて、販売ルートはそれなりにあるので、プラスアルファのことをもうちょっと考えていきたいですね。「福島」だから「応援」というよりも、安心安全をベースにしてひとつひとつの農産物の美味しさやクオリティを追求していきたい。
農業体験イベントは、来年からちょっとスタンスを変えようと思っていて、最近は純粋に「農業体験がしたい。」とか、「餅つきがしたい。」とか「農家民宿に泊まってみたい。」という人も多くなってきたので、純粋に地域の魅力を観光資源として利用するような企画を考えています。
また、大学生の時から人の成長に携われるようなことを農業分野でやっていきたいと思っていて、これはビジネスとしてはまだ未熟ですが、中学生や高校生に農業体験プログラムを通して食のことを一緒に考えたりするのもやってみたいです。
体験というのはやっぱり心に残る財産だと思います。あまり「お客さん第一」と考えると接待みたいになってしまうので、自分自身が楽しんでやるようにしたい。

これから避難解除になって住民が帰還してくる地域もありますね?

私の住んでいる東和地域は、移住者が移り住んで来たり農業活動も活発になってきているので、ある意味「希望の光」なんですけど、隣の山木屋地区は、これから避難解除になって帰ってくる人たちがいて、いまだに「影」の地域です。
除染のため表土が剥ぎ取られているので、農業を再開するにしてもマイナスからのスタートで、一度住まなくなった地域に生活を取り戻すのは大変です。若い世代は戻らない選択をしている人も多く、高齢者しか戻って来ない可能性が高い。
そこで何ができるか、私も考えていきたいと思います。時間はかかるしハードルは高いんですが、ひとつ火がつけばバッとなる可能性もあります。線量が高かった場所で農作物を作るのは躊躇するので花卉栽培をやってみるとか、山木屋地区の復興を応援したいという人達を集めて土作りから始めるとか...。

日本の農業はこれからどうなると思いますか?

TPPも決まったし、農業はこれから本当にビジネス化していかないと。いろんな意味で変わらなくてはいけないタイミングだと思います。小規模であればあるほどコストもかかるので、どうやって付加価値を見出せるか、ありきたりじゃなく誰もやってないからこそ価値を出せるようなことをやっていかないと。
徳島県でIT企業が民家を改造して働いていたり、都会に住む人が「地方で豊かに暮らしたい。」とか、地方にも目を向け始めているので、そこはチャンスだと思います。そういう時代の背景も視野に入れながら、農業を基盤にした移住や起業のコーディネートも考えています。
大規模集約とか6次産業化とか色んなことが言われていますが、私はやっぱり「楽しい農業」をやっていきたい。農業体験も「楽しかった。」って思わないと「またやりたい。」ってならないから。

農業には、きぼうだけではなくビジネスのたねも必要なんですね。

あとは、前から思っているんですけど、やっぱりパートナーかな。1人でやっていたから広がらなかったし、頼れないこともたくさんありましたから。

それじゃ農コンもやらないと(笑)。

いや、そういうのでは期待していないですよ(笑)。