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元・青年海外協力隊員

金崎 さおり(2008年度・健康スポーツ学専攻卒)

元・青年海外協力隊員


難民の子ども達に体育を教えるということ。

金崎さんは、卒業してすぐ青年海外協力隊に参加し、体育教師としてシリアに行ってきました。そこで体験したことは、日本での生活とは全く違ったものでした。
<2012.11収録>

青年海外協力隊に参加したんだって?

はい。2009年3月に卒業して、青年海外協力隊員として中東のシリアに行ってきました。任期が2009年6月から2011年の6月まで、2年間だったんですけど、2011年の4月に起こったシリア国内の混乱で、任期を2カ月残してやむなく帰国しました。

混乱というのは?

今も続いてる、アサド大統領派と反政府派の内戦です。内戦が始まって、私たちはいったん日本に戻り、混乱が収まるまで待機することになったんですね。その間、青年海外協力隊員として東北に震災ボランティアに行ったりしていたのですが、結局シリアには戻れずに任期が終わってしまいました。だからシリアで活動してたのは、実質1年と10カ月です。

どんな活動をしていたの?

青年海外協力隊として任された仕事が「発展途上国の体育授業の発展」と、「現地の教員の育成」、あと「日本人ボランティアが持ち込んだソフトボールを発展させる事」という3本柱がありました。
私は、シリアのパレスチナ難民キャンプの中にある小学校や中学校を巡回して、現地の体育教師と一緒に難民の子どもたちに体育を教えたり、ソフトボールのアラビア語のルールブックを作ったりしていました。

どうしてシリアにパレスチナ難民の人がいるんですか?

1948年の第1次中東戦争の影響を受けて、土地を失なったパレスチナ人が、レバノンやヨルダン、シリアなどに難民として一時的な避難生活を始めたのがきっかけです。シリアには、9カ所の難民キャンプがあって、おじいさんおばあさんの代から住んでいます。

行く前に何か準備はしました?

JICAの訓練所で2カ月間、アラビア語を勉強しました。でも実際行ってみたら最初は全然喋れなくて、「あなたのアラビア語、赤ちゃんみたい。」って小、中学生にバカにされ、悔しくて家に帰って泣いてました(笑)。「クッソー!」と思い、猛勉強しました。
でも結局アラビア語が上達したのは、現地の人達が家に呼んでくれるようになって、お茶を飲んだり夕飯を一緒に食べながらお喋りをするようになってからでした。

難民キャンプというのはどんな感じ?

元々第2次世界大戦の時に軍が使っていた場所を、難民キャンプとして使っているんですけど、広さが1キロ四方くらいで、人口は2万人ぐらいだと思います。正確な数は現地の人でもハッキリ分からないようです。
キャンプと言ってもすでに60年も避難生活をしているので、コンクリートの家が建ち並んでいて、外見は古いんですけど中はけっこう綺麗で、リビングにはソファーがあったりします。ただ難民キャンプの中にも格差があって、貧しいお家は小さなスペースに10人ぐらいギュッと集まって住んでいるところもありました。
なにぶん土地が狭いので、家族が増えると自分達で上に建物を付け足していくんですよ。お兄ちゃんが結婚したから、新居を2階に作るという具合です。2、3階建が普通で、そこに家族10人ぐらいで住んでいます。でも老朽化してきて危ないので、ヨーロッパの支援で建て直す計画だったんですけど、それも内戦のせいで止まってるか破壊されてるかも知れません...。

キャンプの中に学校もあるのですか?

私の行ってた難民キャンプには、校舎が4つしかなく、それを8つの学校で使い回していました。午前中は小学校1年生から4年生まで使って、午後から5年生と6年生が使うといったぐあいです。各学校の生徒数は300~400人ぐらいだったと思います。
小学校1年生から4年生までがひとつの学校で勉強していますが、4年生のクラスからは男女別学になります。小学校4年生ぐらいから、女の子はイスラムの髪の毛を隠す「ヒジャーブ」と言う布をかぶり始めます。かぶる時期は決まってなくて、自分の意思だったり、父親や兄弟に「そろそろ。」と言われたり。早い子だと、2、3年生ぐらいから掛けてる子もいます。

金崎さんもヒジャーブを付けた?

私は付けなくても大丈夫でしたね。他に付けている日本人もほとんどいなかったです。

どんな風に子どもたちを教えていたんですか?

現地の先生と一緒に、その場その場で出来ることを考えてやっていました。例えば、「ここにフラフープ3つと、ボール2つ、輪っかが10個ある。これで40人の授業をやりたいんだけどどうする?」という相談から始まるんです(笑)。
カリキュラムはあるんですけど、道具が無いからカリキュラムどおりに実践できません。バスケットボールやサッカーをするにもゴールが無かったり。バスケットボールはフラフープを子どもに持たせてゴールを作り、何とかカリキュラムに近づけようと工夫しました。
体操着もなく運動靴も履いていないので、最初は「運動靴を履かないと危ない。」とか思ったんですけど、お金がないので「運動具靴を履きなさい。」とも言えないし、彼らもそれを当たり前のこととして受け入れているようでした。
体育館もなくグラウンドはコンクリートで、40人が体操しようと広がったらもういっぱいで、コンクリートの上をサンダルでリレーしたり、ソフトボールをやったりしていました。

子ども達はどんな感じ?

すごい人懐っこいです。「どうコミニュケーションとろう?」と思ってるうちに、もう向こうから話しかけてきて、あっと言う間に20人ぐらいの子に囲まれていました。そういう意味では溶け込みやすいというか、スーっと入って行けました。
そのうち、あちこちの生徒の家に招かれるようになりました。最初は「難民だから...。」と思って遠慮していたんですけど、「私のお母さんに会わせたい!」って腕を引っ張って連れていかれ、夕食をごちそうになったりもしました。
食事の時は床にシートを敷き、その上にお料理と「ホブス」って言うナンみたいな薄焼きパンが置いてあるんですよ。みなその回りに座って、「さあ、食べなさい」ってお母さんがホブスを足下に投げてくれるんです(笑)。

フリスビーみたい(笑)。おいしいんですか?

おいしいですよ。オリーブオイルを沢山使った煮込み料理とか、鶏肉とターメリックの炊き込みご飯とか、ジャガイモとトマトとピーマンのグリルとか、バリエーションも多かったです。肉は、豚は食べないので鶏がメインでした。どこのお家でも「あなたは家族の一員なんだからいつでも来なさい。」って言ってくれました。

どんなことをお話しするの?

家族の話が多かったです。それはどこに行っても聞かれましたね。何人家族で、家族の名前とか仕事とか...。生徒が授業に飽きた時も「先生のお父さんの名前何て言うの?」って聞いて来たり、誰としゃべるのにもまず家族の話題が出て来ました。やっぱり家族に興味があるんです。

宗教的な話題は?

その話が一番苦手でした。自分自身宗教についてしっかり考えた事が無かったので、「あなたの神はどんな?」って訊かれ、言葉につまっていると、決まってイスラム教を勧めてくるんです。「神を信じないなんて可哀想だ。」「あなたは天国に行きたい?」、最後に「天国に行きたいんだったらイスラム教を信じなさい。」というのが決めゼリフでした(笑)。
ただ戒律とか礼拝に関してはそれほど厳格ではなく、学校で礼拝の時間が来ても礼拝する先生は一部でした。

歴史や政治のことは?

政治的な話題は控えるようにしていました。相手も嫌がるし、私も間違ったアラビア話の解釈をするのも良くないと思ったので。難民キャンプに住んでる人達は、私がJICAの人間であると分かっていても、政治的なことに関しては「自分の言った事を他人に漏らすんじゃないか。」と警戒しているようでした。
でも帰国間際に、将来「パレスチナに帰りたい。」と思っているのか、シリア人となるのか、2、3人に聞いてみたんですけど、みんな目をウルウルさせながら「絶対にパレスチナへ帰る。」と言っていました。

他にどんな隊員が派遣されていたの?

同じ難民キャンプの中に、音楽と美術の先生も派遣されていました。私が行った時には既に1人の先輩の隊員がいて、そこに私と一緒に行った別の隊員が入り5人で活動していました。難民キャンプ以外にも、シリア人を対象にバドミントンを教えたり、農業開発をしている人もいました。

住む場所は?

アパートで一人暮らしです。難民キャンプの中は許可がないと入れないので、私は難民キャンプの近くの町から毎日通っていました。
首都のダマスカスに難民キャンプを統括してる本部があり、そこに難民の子ども達の体育を指導する主任がいて、週末に集まって相談をしながら平日はそれぞれの任地で活動していました。

内戦の始まりの頃は?

私が住んでいた所はアサド大統領支持派の平和的なデモがあったくらいでしたが、別の地方に住んでいた隊員の家の近くで銃撃戦があり、犯人がテロリストだったので、協力隊が撤退することになりました。撤退する時は、国道に戦車が何台も出ていて、兵隊も銃を垂直に構え戦闘態勢になっていました。「あぁ、これはもうダメだな。」と思いました。

貴重な経験をしましたね。

ほんとに難しい問題に巡り会わせてもらったと言うか、正直、体育のことよりも考える事が多かったです。向こうに行ってから、自分がいかに無知だったか知りました。「こんなに複雑で、みんなで考えていかないと解決しない問題ってないんじゃないか。」と思いました。

反政府派の人達は何を主張してるんですか?

内戦のきっかけとなった事件が起きたのがダマスカスの南の村だったんですけど、私が住んでたのはそこから400キロぐらい離れた都市で、現地のシリア人も最初は「何を主張してるのか分からない。」と言っていました。
「ジャーナリストがわざと話を大きくして国民を混乱させているんじゃないか。」とか、「外国から金と武器を与えられた人達が政府を潰す為に動いたんじゃないか。」とか、「イスラエルとアメリカが敵対してるシリアを潰したいんじゃないか」とか、色々言われていました。何が正しいのかは分かりません。

イスラエルの中にもパレスチナ人は住んでいるんだよね?

私はシリアから帰った後、1年間世界旅行をしたんですけど、その時イスラエルに行き、パレスチナ自治区を見てきました。それはイスラエルの中に必死でしがみついてるように見えました。
イスラエル入国の時に入国スタンプを押されると、シリアにはもう絶対入れなくなるので、「私はこの10年パスポートでまた必ずシリアに戻る!」と思い、「パスポートにスタンプは押さないで。」って必死でお願いしました。
元々パレスチナ人が住んでいたところに、世界中からユダヤ人が集まって来て、自分たちの国を発展させてるんです。日本の高速道路のように綺麗で、高い建物も建ってて、そこに「もう諦めた。」ようなパレスチナ人が住んでいたり、「まだ諦めてない。」パレスチナ人が都心から30分ほど離れたパレスチナ自治区に住んでいたり。

昔はパレスチナ人もユダヤ人も共存していたんですよね?

それが、アメリカの支援を受けて、イスラエル健国の為に、そこに住んでたパレスチナ人が追い出されたんです。2000年以上前に神に約束された土地だからっていう理由で...。

旧約聖書にある「約束の地」ですね? 「もう諦めた」パレスチナ人はイスラエルの中でうまくやれているんですか?

それが、すごい不思議でした。ユダヤ人と普通におしゃべりもしてるし、ユダヤ人の象徴として頭に乗せる「キッパ」っていう帽子を自分の店で売ってたりするので、表面的にはうまくやっているんだろうなって思います。でも心の奥底には、フツフツしたものがあるのかも知れません。

協力隊に参加してみてどうでした?

ほんとに貴重な体験をさせていただいたと思います。最後の2カ月間に、私たちの活動の集大成が詰まっていたのですが、内戦のせいでそれも実行できずに帰国しなければならなくなったのが心残りです。やっとこぎ着けた初めての運動会とか、ソフトボールのルールを理解してもらうための講習会とか...。

日本に戻って来てどう感じました?

2年間、全く日本に帰らずにシリア人に近い生活をしてたので、帰ってきて友達に会った時、話が通じなくてショックを受けました。今、考えたら当然なんですけど、友達はやっぱり仕事や恋愛の話がメインなんですよね。パレスチナ難民のことには全然興味を示してもらえませんでした。あまりに離れ過ぎてるし、「ああ...日本と関わりが薄い国なんだな。」って痛感しました。

東北大震災の直後に戻って来たんですね?

そうです。2011年の4月の23日に帰国して待機となり、任期が残っている間に、協力隊員として東北にボランティアに行ってきました。岩手県の遠野を拠点に2週間ほど、陸前高田、釜石市、大槌町の3カ所を回りました。

何をしてきたんですか?

緊急支援物資が必要かどうか、一軒一軒聞いて回りました。でも物資を渡すというより、被災者の方の心のケアに重きを置かれていたと思います。ボランティア先の人に、1時間でも2時間でもとにかく話を聞いて欲しいと言われました。
物を届けに行くという名目で聞き込みを行い、川が氾濫して流される様子がずっと頭に焼き付いて離れないとか、人が流れて行くのに何もできず見捨ててしまったとか、色んな方のお話を聞きました。 「あまり感情移入をしすぎないように。」と言われていましたが、丸一日そういうお話を聞いていると、結構こたえました。

大学時代はどんな風でしたか?

ラクロスを3年間やってました。高校までソフトボールを一生懸命やっていて、最初はソフトボール部に入ったんですが、途中で挫折して...。「自分のソフトボールでは大学では通用しない。」と思い、5月には見切りをつけ、退部しようと思ったのですが、実際に退部するまでが大変でした。
先輩からは「辛いから逃げたいだけじゃないのか。」と罵声を浴びせられたりしました。ニチジョは狭いから、どこに行っても先輩に会うし、やめられずに部に籍はあるけど「やめたい。」と言ってる私は練習にも行かず、体育館の裏で隠れるようにご飯を食べたり...。
学生課に「退学ってどうやってするんですか?」って聞きに行ったり、今だから笑って話せますけど、当時はけっこう病んでいましたね。
その頃に、「自分は本当は何をしたいのか?何に興味があるのか?」を一生懸命考えました。それこそシュウカツでするように文章にしてみたり、障害者施設で体育指導のボランティアをやったり、YMCAで野外活動のボランティアをやったり、1年間、色んな事をやってみました。そこから体育の先生になりたいとか、海外に行きたいと思うようになりました。
やっぱり部活をやりたいと思い、2年生になってラクロス部に無理を言って入れてもらいました。あの頃はつらかったけど、ほんとに色んな人に支えてもらったと思います。

協力隊はどうして行こうと思ったんですか?

最初は体育の先生しか考えてなかったんですが、教員採用試験と協力隊の試験がちょうど同じくらいにあって、漠然と海外に興味があったし、ボランティアが自分にあってると思って、ダメもとで受けてみたんです。
体育教師の27の枠のうち、新卒可はモルジブしかなかったんですね。他は実務経験が3年以上必要だったんですけど、面接の時に「どこでも行きます。どの言語でも勉強します。」って言ったら、シリアで採用していただいて。中高とソフトボールをやっていた経験を買ってもらったのかな...。

ボランティアには元々興味があったんですか?

何故か分からないけど、人の役に立ちたいという気持ちはずっとありました。中学校ぐらいから、おじいさんおばあさんには絶対電車で席を譲るとか、困ってる人を助けるとか、そういう使命感があったんです。電車の中吊り広告で、難民とか募金とかが良く目に留まっていました。

日本に戻ってからまた世界旅行に行ったそうですね?

もっと色々な国を見てみたいと思って。ちょうど彼が行くと言うので一緒に行くことにしました。世界旅行をするために、3カ月間アルバイトをしてお金を貯め、東南アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカ、南米とオセアニアを回ってきました。
交通機関は飛行機とバスと電車を使い、その町に到着してから一番安い宿やドミトリーを探して泊まる生活でした。ペルーで体調をくずしたりしてちょっと大変だったんですけど、1年間旅を続け、9月の25日に戻ってきました。日本に戻ってから1カ月経ったかな。

世界はどうでした?

世界は広かったです(笑)。そして「気楽に生きてる人が多いんだなぁ。」と思いました。「人間、贅沢を知ると戻れない。」って言うけれど、あんなに気楽に生きている人を見てしまうと「また頑張るにもエネルギーがいるなぁ。」と思いました。

頑張ったり競争したり、ちゃんとしたり(笑)。

そうそう(笑)。ちゃんとするのが疲れるんですよね。何をしてるわけでもないのに、帰って来てから肩が凝ってしょうがないんですよ。

これからどうしようと思っていますか?

一番難しい質問ですね(笑)。やっぱり興味があるのは「体育教育」と「国際協力」です。国際協力の仕事は中々ハードルが高いので、やっぱり体育の先生かな。できれば普通の学校というより、インターナショナルスクールとか特色のある学校に興味があります。でも先生の仕事だけに没頭して、シリアや世界で見て来たことを全く忘れてしまうのも嫌なんです。
普通に就活して会社に勤めることも考えてみたんですけど、「ちょっと物足りないかな。」と思ってしまいます。卒業してもうすぐ4年経ち、友達は職場では中堅で働き盛りという感じで、それもプレッシャーなんですけど。
実は今シリアの内戦で、シリア人が国外に避難して、今度はシリア人が難民になっているんです。その人達への支援も始まるらしくて、気持ち的にはそこに一番興味があります。でも「そろそろ日本に落ち着かなければ。」とも思うので、その気持ちはひとまず置いて仕事を探しています。

せっかく行ったんだから、そういうことに関われるような仕事が出来るといいね。

最近は、日本でお仕事しながら週末をそういうことに当てるのもアリだと思っています。シリアから帰って来た時は、もっとアラビア語を勉強して、アラビア語を生かした仕事に就きたいと思っていたんですけど、やっぱりそれは現実的でないし実際の仕事も少ないので、別の道で生きる方法を探します。細々でもいいので、自分がやってきたことと少しでも繋がっていれればいいなと思っています。