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ダンス系
映像作家

吉開 菜央(2009年度・舞踊学専攻卒)

フリー映像作家


星の導くままに生きる。

吉開さんは現在、映像作家として活動しています。ダンスの世界から映像の世界に行くまでの道のりについて聞きました。
<2014.10収録>

7月に「ムージックラボ」という映画祭に出品しましたね?

映像と音楽がコラボする、若手作家の登竜門的な映画祭です。東京を封切りに全国11カ所を回ります。映画を撮るのは初めてだったのですが、今回挑戦してみて自分の可能性がすごく広がったと思います。

映像作家として、他にどんな活動をしていますか?

今年の冬には、山口県秋吉台の国際芸術村に2カ月半ほど滞在して作品を作ってきました。ダンサーの身体が立てる音だけで作った実験的なダンスの映像作品です。アーティスト・イン・レジデンスと言って、自治体などが作家を一定期間その土地に滞在させ活動を支援する事業の一環で、私も制作費や日当をいただきました。海外からも多くのアーティストが滞在していて、それぞれのお国柄が見えておもしろかったです。
他に仕事で、映画のメイキング(制作過程のビデオ)を作ったりもしています。この間は映画の主演アイドルのファン向けに販売するDVDを作りました。撮影現場で10日くらいカメラを回して、自分で編集して作りました。振付けの仕事も、ホームページにアップしたダンス映像を見てくれた方から「映画にダンスシーンを入れたい。」という依頼を受けたりしてやっています。
活動していくうちに色んなところで繋がりができて、お話をもらったりするので、今はどんな方向の仕事でも受けようと思っています。

もともとは舞踊学専攻でダンスをしていたんですよね?

10才の時にバレエを始め、ジャズダンスやヒップホップもちょっとかじりました。ニチジョに入ってから、「作品を作るということは特別なことだな。」と思うようになりました。ある日「お風呂で踊る映像作品を作りたい。」と思って、風呂屋を借りてダンスを撮りました。頭の中にいちおうカット割りもあって、そういうのは得意だったんです。舞台でダンス作品を作るより楽しいと思い始め、学内で映像作品を発表する場もできたこともあって、だんだん映像のほうにのめり込んでいきました。

大学院に行ったのは?

大学時代は、舞台作品も映像作品も、ただただ楽しくてつくっていました。でも、ニチジョで評価されているだけでは満足できなかったんです。発表する場はあっても、作品について具体的に批評される場は少なかったから。周りに、映像に特化して活動しているダンサーはひとりもいなかったから、めずらしがられていただけかもしれません。東京芸術大学の大学院映像研究科で映像作品を学んで、自分の作品がどこまで通用するのか試してみたかった。
そこで音楽を使わずにダンスの映像作品を作るという自分なりのスタイルを作りあげていって、辛口な講評の中にも褒めてもらえる部分もあり、それが自信にもなりました。作品を世に出すノウハウやプレゼン力も鍛えられて、「そういうことも考えなきゃいけない。」と気づけたことがいちばん大きかった。

大学院を終えて?

「1度は社会で働かないと。」と思い、大学時代にミュージックビデオのダンサーとして出た時の制作会社がちょうど募集していたので、応募したら採用していただけました。社員50人ぐらいのCF制作会社で、女性が多くてオシャレな会社でした。私の仕事は、CF制作のスタッフや出演者を手配することで、企画にあったCFディレクターを探したり、カメラマンや照明さんにお仕事を頼んだり...。そのままそこで働いていても演出家にはなれなそうだと思ったので、10カ月あまりで辞めました。

辞めてどうしようと?

「これからは自分の作品を作ろう。」と思いました。大学院でやっていた作品作りを発展させてみたかったので、資金作りのために、冬の間、群馬の温泉旅館で住み込みで働きました。給仕の仕事をしながら、「どうしてこんなに旅館がいっぱいあって成り立つんだろう?みんな普段の生活と違うことを求めて来るんだろうな...」とか色々考えました。
私は接客経験もあまりないので、リップサービスでお客様の笑いを取ったりすることは苦手でした。そこでどんなに頑張ってもプロの中居さんにかなうはずもなく、私の代わりなんていくらでもいます。「私はやはり映像で頑張るしかないんだ。そうしないと自分の存在価値がなくなってしまう。でもバイトしたお金で作品を作るようなことをやっていたら、永遠にそこから抜けられないんじゃないか...?」と思いました。
春になって東京に戻り、「那須ショートフィルムフェスティバル」というのに作品の企画を出してみました。幸運にも選ばれて、夏に制作することになりました。もうひとつ、山口県のYCAM情報芸術センターという美術館の映像コンペティションにも作品を応募しました。「架空の映画音楽で映像を作る」というテーマで「みづくろい」というタイトルの映像作品を作って送りました。
「なんとかお金をもらいながら作品を作る方法はないか?」と思い、色々調べてみると「アーティスト・イン・レジデンス」はヨーロッパの方が恵まれているとわかりました。「じゃあレジデンス探しにヨーロッパに行こう!」と、東京のアパートを引き払って5月に出発しました。いちおう行く前に調べて何カ所かアポイントも取りました。

ヨーロッパはどうでした?

始めてのヨーロッパだったので楽しかった。最初にパリに行って、知り合いのプロデューサーが関わった短編映画がノミネートされたカンヌ映画祭を観ました。ドイツにニチジョOGの友達がいたので、彼女の家を拠点にヨーロッパ各地のレジデンスや舞台作品を観て回る予定でしたが、海外初体験の私にとって、レジデンスよりも魅力的なものがたくさんありました。
この際、行きたかった場所に全部行こうと思い、ユーレイルグローバルパスを買って、フランスはカンヌから、オランダ、ベルギー、ドイツ、果てはトルコまで、夜行列車を3日間乗り継いで行ったりもしました。トルコでは夜行バスに9時間乗ってカッパドキアに行き、そこで色々な出会いや自然の驚異に遭遇し、それは未だに脳裏に焼き付いています。
トルコからドイツへの帰路で、YCAMコンペでの受賞を知りました。帰国してから、那須ショートフィルムフェスティバルへの作品制作費をどうやり繰りすればいいのかずっと心配だったので、「YCAMの賞金で作品がつくれる!」と、ひとり興奮しました。

ヨーロッパで舞台は観ました?

ベルギーでは好きなダンスカンパニーを観て、フランスでもピナバウシュの「コンタクトホーフ」を観に行きました。ピナは、当日券を買おうと1時間前に行ったら売り切れだったので、リベンジで今度は6時間前に行き、ひとりおばさんが椅子に座って並んでいる後ろに私も並びました。
でも寒くてじっとしていられず「ちょっとその辺をぶらぶらしてきます。」とおばさんに言ったら整理券をくれたのですが、それは劇場が発行したものじゃなくおばさんが勝手に書いたもので、でもそのおかげで列の2番目に戻れて今度は観ることができました。舞台よりそんなできごとの方が印象に残っています。
ダンスを観ることが生活に根付いていると感じました。チケットも日本より全然安くて、仕事帰りに友達を誘って普通に舞台を観に行ったり、ダンサーは舞台でどれだけお客さんを楽しませるか手数勝負みたいな感じがして、それが逆に健康的で「技術だけじゃないんだな。」と思いました。
サマータイムのため夜10時になってもまだ明るく、美術館とかも遅くまで開いていたり、子ども達が公園でサッカーしていたりして、「舞台を楽しむにもいい環境だな。」と思いました。

日本に戻ってから?

那須ショートフィルムフェスティバルの制作の為、まっすぐ那須に行きました。住む場所がないので主催者の方に相談したら、その方が持っている旅館に安く泊まらせてもらえることになり、ロケハンから撮影までひと夏泊まっていました。「旅館のご飯は好きなだけ取っていいよ。」と言っていただき、コンビニで買ったカレーのルーやふりかけをかけて生きていました。
作品は女の子が那須の中を自転車で走りまわるという設定で、自転車を買って自分が自転車で走り回るところをカメラマンに撮ってもらいました。移動は全てその自転車でやりました。那須ショートフィルムフェスティバルでも賞をいただくことができました。
それからしばらくして、秋吉台の国際芸術村のレジデンスに行ったのですが、「ムージックラボ」に出品することになって封切が翌年の7月の初旬だったので、レジデンスが終わったらすぐに東京に来なくてはいけませんでした。身一つで住めて家賃の安いシェアハウスを見つけ、3月に再び東京に来ました。
「ムージックラボ」は映像と音楽のコラボということで、私が映像担当、大学院時代の同期で今は歌手活動している方に、音楽を担当していただきました。出演者は、その音楽担当の子とニチジョOG の4人のダンサー、そしてモデルの子です。今回は資金面での助成はなかったので、那須ショートフィルムフェスティバルの審査員で今も交流のある方に相談したら、ふたつ返事で全面バックアップしてくださるという奇跡が起こり、とても感謝しています。

今回の映画はどう作っていったのですか?

いつもはインプロビゼーション(即興)で撮って、いいところだけ抽出して作り上げていくんですけど、今回はそれでは崩壊する可能性があったので、最初にイメージ画を描いて、ある程度構成を決めて取りかかりました。
一人の女性が住む古い家に、4人の踊り子と少女が隠れ住んでいるという設定で、ロケ場所はプロデューサーと色々回って飯能の古民家を見つけスタジオとして借りました。バシッて撮ってもらう所はプロのカメラマンにお願いして、「ここは自分で回したい。」というところは自分で撮影しました。
昔の生活感が残っている雰囲気のいい家でしたが、いざ撮影を始めると、どんどん足を踏みしめたりするものですからホコリが舞い立って咳込んだりしました。太鼓を叩きながら大声を出して踊るシーンがあって、夜の8時ぐらいに練習でドンドンやっていたら、大家さんが怒鳴り込んで来ました。
「そんなことやるなんて聞いてないぞ!そんなことやるなら周りの家に1軒1軒菓子折り持って挨拶しなきゃダメだろが!」とめっちゃ怒られて、「コレはもう撮影止められる...。」と思いました。でも絶対に最後まで撮りたかったので、プロデューサーと一緒に「すいません!お願いします!」ってガッて目を見て必死でお願いして、何とか続行できることになりました。
でももう音を出しちゃいけないので、太鼓に布を貼ってミュートして「みんな、ささやき声で!」ってやっていました。

踊り子の息づかいや、畳に足を摺る音がすごく印象的でした。

実はあれは全部後録りなんです。普通の映画なら台詞があるのでそんなに音が良くなくても観れちゃうんだけど、私の作品の場合はダンサーの立てる音が台詞なので、そこがだめだったら持たないと思っていました。ところが現場で録れなかったのが功を奏して、もっと丁寧な音を作れたんです。
スポンサーの方が録音スタジオを用意してくれて、畳も木の床もガラス戸もあるどんな音でも録れる環境で、ニチジョ生に何人か来てもらって、映像に合わせてこのタイミングで息を吸って吐くとか動いてもらいました。初めて見る映像にあれだけ合わせられるのはすごいことらしくて、録音技師さんもびっくりしていました。ダンサーにはひょっとしたら声優のような能力もあるのかもしれません。
録音技師がパソコンのモニターを見ながら「これはNG、これはOK。」ってやってくれ、そうすると音のクオリティーが全然変わってきました。大学院時代、私の作品はいつも「音が弱い。」って言われていたのですが、今回はそこを思いっきりやらせてもらえて良かったです。

映像作家の立場から見て、ダンス界をどう思いますか?

映像の仕事をやってから、「ダンサーの能力は色んな場面で生かせる。」と思いました。このシーンで踊りたいとか、ちょっと動きを入れたいとかいうのがすごくあるんです。ダンサーも、ダンススタジオに通って発表会に出るというような普段のサイクルからちょっと外れるだけで、活躍できる場がすごく広がると思います。CFでも地域のイベントでも、ダンサーはもっと色んな場所に出て行けると思います。
日本のコンテンポラリーダンスは、観る人がダンス関係者に限定されてしまう部分もあり、まだまだ生活に根付いているとは言えませんが、今回ムージックラボをやってみて「普段ダンスを観ない人でもこういうダンスにシンパシーを感じる人はいるんだな。」と思いました。そういう人をもっと取り込んでいければいいですね。

これから目指したいのは?

正直、生活面ではまだまだなので、まずはちゃんと作家として生活できるレベルになりたいです。バイトとかやっても私は社会の役に立たないので、自分が必要とされる場所でものを作っていきたいと思います。自分が必要とされる、自分を出せる場所がなくなったら、やっぱり生きて行くのもキツいと思うんです。
今も来た波に身を任せ続けるような危ない綱渡りばかりやっています。今後どうなってしまうのか、全く予想もできません。自分の進むべき道を、占い師に占ってもらうくらいです。あ、私占いが大好きなので、占い師にならなれるかも(笑)。台詞がある映画にもすごく興味があります。ちょっと言葉が入るだけで見え方が全然変わってくるとわかりました。