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ダンス系
ダンサー・ヨガインストラクター

小山 綾子(2002年度・舞踊学専攻卒)

ダンサー・ヨガインストラクター


繋がることが自分の表現だ!

小山さんは、大学を卒業してからずっとダンスをメインに活動していました。昔から人を喜ばせることが大好きで、それで踊っていたのに、いつの間にか踊ることが苦しくなっていました。
<2014.01収録>

舞踊学専攻の1期生だから卒業してもうすぐ12年になりますね。今は何を?

ダンスと、ヨガのインストラクターをフリーでやっています。もともとはカルチャースクールやスポーツクラブでバレエのインストラクターをやっていたのですが、インドにヨガの修行に行って、ヨガのレッスンも始めました。
今は日本もヨガブームだからヨガスタジオがいっぱいあって競争は厳しいんですけど、口コミで生徒さんが集まってきてくれて、スタジオやマンションの共有スペースを借りて教えています。タイマッサージも勉強したのでそういうのも入れながらやっています。

今まで就職は?

それが1度もしたことがないんです。卒業してすぐの頃は、中学校のダンス部でコーチをやったり、カルチャースクールでバレエを教えたりしながら、残った時間は全部自分のダンスのリハーサルや舞台の発表に使っていました。そういう生活をもう10年以上続けているから、やっぱりもう好きな事しか出来なくなっちゃって、今になって大変だなぁって思います(笑)。

学生時代からずっとコンテンポラリーダンスを踊っていましたね?

元々はバレエをやっていたんですけど、中学生の時の創作ダンスがきっかけでモダンダンスを始めて、高校の時に都内のスタジオに通うようになり、スタジオの先生に推薦書を書いていただきニチジョに入りました。バレエも続けていましたが、大学に入った頃にはコンテンポラリーダンスに興味が移っていました。

その頃は何になろうと思っていました?

ピナバウシュになろうと思っていました(笑)。大学に入ってみたものの、ピナバウシュのようなカリキュラムはないから、ずっとドイツに行きたいと思っていました。ダンスプロジェクトという、神戸ダンスフェスティバルの参加発表部門に参加した時に色々な先輩に出会って、「大学も面白いかも。」って思い始めたんです。
当時は教職を取る人と取らない人でクラスが分かれていて、私は教職は取っていなかったのですが、2年生の終わり頃に教職クラスの人たちに誘われて、「ポコペン舞子(ぶす)」というユニットを組んで、セッションハウスで作品を発表したりしていました。
イスラエルのバットシェバ舞踊団が来日した時に、青山劇場に観に行って、私はビデオで振りを覚えていたので、公演後のレセプションパーティーで踊ってみせたら、オハッド・ナハリン芸術監督が「イスラエルに来れば。」って言ってくれました。
そこでまた火がつき、「大学やめる!」となったのですが、「もう4年なんだから、とりあえずちゃんと卒業しなさい。」って先生に反対され...。ちょうどテロとかもあって、海外情勢も危ない時期だったんです。

うーん、人生の分かれ目ですね。卒業後は?

いくつかのユニットやカンパニーに参加しながら踊り続けていました。卒業して5年目くらいからは、もっぱらソロで活動をしていました。
自分のダンスについては色々と悩んでいて、ずっと舞台の世界でやってきて、それが快感で好きな事しかやってないのに、やってもやっても終わらなくて、だから面白いしだから疲れてしまい、先が見えないことの息苦しさを感じながら、いつも自分を保っていけるスレスレのラインでやっていました。
当時美術館でアルバイトしていて、3カ月にいっぺんぐらいの展示の入れ替え期間に、バックパッカーの友達に会いに東南アジアに遊びに行ったんですよ。そこで出会った人達にビックリして、そしてなぜか「ゴメンなさい!」って思っちゃったんです。
みんな生きることにすごい一生懸命と言うか、普通に生きているだけでメラメラしていて、もちろん悩みだってあるんだろうけど暗い顔をして働いている人には一人も会わなかった。「私は好きな事しかやっていないのに、ちっぽけなことで悩んでいるなあ。」と思って、自分が恥ずかしくなりました。
「あの人達の明るさはどこから来るんだろう?」「芯が強くないとあんなに働けないし、やっぱり宗教かな?」とか、色々考えました。「私には宗教もないし、自分で考えて決める自由はあるけど、与えられた自由に対してちゃんと考えているのか?」とも思いました。

生きることに一生懸命な人達の中では、個人の表現がちっぽけなものに見えたと。

私にとってはそういう人達のほうが、よっぽど表現者に見えたんです。踊りなんか踊らなくても、生きてるだけで表現できているような気がして。「昔の日本もきっとこうだったんだろうな。この国もあと2、30年経ったら日本みたいになるのかな。」と思った時に、今しか見れないものがきっとあるはずだと、もっと色んなところに行ってみたくなりました。
それでちょくちょく海外に行くようになって、踊る場所も海外公演とか外国にツアーに連れていってくれるようなところを選んだり、日本に帰って来ては2、3週間で短期集中でリハーサルをやったり、自分自身で外国に行きやすい環境を作っていました。
「心と身体」みたいなことにだんだん興味が湧いてきて、自分の踊りが舞踏みたいな方向に行き始めました。音楽を使わず無音で踊るようになり、自分を追いつめながら深いところに突っ込んで行き、辛くなってまた戻るということを繰り返していました。
「自分の中にはいくつの自分がいるんだろう?」「感情を表に出している自分と、お腹の底でどっしり変わらない自分と、それを理性で結ぼうとしている自分の3つかな。」「お腹の底でどっしりと変わらない自分のまま生きて行ったら、人生がうまく流れていくんじゃないか。」とも思いました。
呼吸について調べている時に、「私がやってる事はヨガだな。」って気づいたんです。ヨガを習ったことはなかったけど瞑想も好きだし、自分には「すごい合っている!」と思いました。そうやって旅行をしたり色んな本を読んで自分が生きる道をどうして行くのか考えているうちに、色んな事に対して意思が強くなっていきました。
「やっぱり賞を取ることがダンス界で生き残ってく術だ。」と思い、2010年1月に、「ダンスがみたい!」の新人シリーズのコンペにソロで出ました。その時、「絶対に賞を取ろう。」と思ったんです。 自分が「ん?」って思っている作品を人に見せても誰も納得するわけがないので、とにかく自分に悔いを残さないように徹底的にリハをやって、新人賞をいただきました。

そして「ポコペン舞子」を再結成した?

あれはセッションハウスの伊藤さんが「出ない?」って誘ってくださったからです。もう卒業して8年ぐらいたっていたので、かつてのメンバーとは飲み友になっていて、私がリハーサルをやっていると叱咤激励に来たり、お互いの舞台を見に行ったりはしていました。また舞台に立とうとなったのが、2010年4月のセッションハウス「日女体祭り」という企画で、その時はニチジョのOG が何組も出ました。
翌年、「ダンスが見たい!」の新人シリーズコンペに、「ポコペン舞子」として参加しました。私がみんなに、「出るからには賞を取るからね。」って言った時、みんなドン引きしたんですよ。みんなユルいというか、「私はここまででいい。」っていう感じで自分にちょっとスキマを残した状態でやって来たので「あぁ~ん?」ってなって。
でも私が賞を取ったのを見ていたので、「今コイツと一緒にやっていけばそれもあり得る。」って思ったんじゃないかな。あの時の私はすごい勢いがありましたから。

ポコペン舞子のダンスは個人の表現と表現のぶつかり合い、格闘技のようでしたが(笑)、あれはどうやって作っていたのですか?

学生の頃はとにかく自分のネタを披露し合うみたいな感じでやっていました。どこかの時点でリーダーは一応私になって、みんなをまとめたり書類提出したりはしたけれど、いざリハーサルを始めると、みんなで振りを作っていきました。
私は、ピナバウシュじゃないけどみんなの個人的な体験に基づいたものをやっていきたかったんです。ピナバウシュがダンサー達にインタビューしながら作るのと同じように、疑問をみんなに投げかけ、踊りにしていきました。
よくやってたのは、1人にダンスをさせて、全員が並んでみんなで言いたい事を言うんです。「あれやって、これやって、次何やって、こんな顔して...。」直感で踊ってみて、それに対しての感想や踊った側の発見を言い合う。やっぱりあの頃一緒にやっていた仲間だから何でも言えるというか。
お互いよく知っているからこそ、舞台上ではお互いの思っている以上のものにならないと嫌で、「私たちそんなつまんない人間じゃない!」とか言い合いながらリハをやっていました。

みんなが演者でもあり、評論家、ディレクターでもある。面倒くさい(笑)。

そうなんです。だからみんな疲れました。誰かに「つまんない。あの時の方が良かった。」とか言われると「どういう事?」ってムキになって、感情むき出し状態で作品をエグり出していったり、みんな作ることの精神的なしんどさを思い知りました。
嫌なこともいっぱいあったと思うけど、かなり濃い時間を過ごして、最終的にはやっぱり賞を取ったんですよ。新人賞を取ると単独公演ができるので、再演のために作品を作り変えることにしました。

その頃はポコペン舞子としての将来は見えていた?

あの時はそう思ってました。みんなもそうだったと思います。ただそこも紙一重で、私たちはもう30歳ぐらいだったから...。
その頃、中国に遊びに行きました。北京から上海まで寿司詰め状態の鈍行電車で13時間かけて移動して、席に座れない人は網棚に寝たり床に座ったりしていて、私も体操座りで床に座り、知らないおじさんが私の肩を借りて寝ていて、みんなヒマワリの種をプープーやったりしていました。
震災の直後だったので私が日本人だって気付かれると、質問大会が始まり、筆談を交えて話しました。そのうち電車の中でマッサージ大会が始まり(笑)。ああいうのを経験しちゃうと日本のラッシュアワーなんて全然平気になりますよ。
北京って中々アートな街なんです。大山子798芸術区っていう、倉庫を改装してギャラリーにしたニューヨークで言えばソーホーみたいな所があって、そこで一人のダンサーに出会いました。大きな男性で、髪の毛をお尻のあたりまでのばしていて、すごい存在感でした。
彼は1年の半分はツアーで色んな所に行って踊り、もう半年は一人旅をしながら踊りたい所で踊っていました。どこにいても何とかしてお金を稼いでくその生き方がすごいと思いました。私もそこで「踊りなよ!」みたいな感じになってちょっと萎縮してしまい、舞台で踊ることにこだわっていた自分が小さく感じました。
女性写真家にも会いました。元々はバレエの先生だったらしいんですが、アーティストになるために田舎から出て来て、出会った時は写真家として売れ始めていて、スポンサーをつけて写真展を繰り返していました。カメラ1台で生きている姿に、「身軽だな。」って思いました。
自分はずっと「ダンスしかない。」と思っていたけれど、「人ってどこでも生きて行けるんだ。自分ももっと自由な生き方をしてもいいんじゃないか。」って思ったんですよ。

普通に生きてる人達の強さに憧れる一方で、表現してる人の自由な生き方にも憧れたんですね。

リハの時、中国からすごい目が開いて帰って来た私に、みんなビックリして「綾子ちゃん、どうした?!」「神降りて帰って来た!」「もとからだけど更にキタなくなったね!」とか言われ、みんなに自分が体験して来た事を事細かに話しました。
ポコペン舞子の活動は、みんなそれぞれやって行きたい思いはありながらも、結果的には続きませんでした。メンバーのひとりはニューヨークに行ってたし、もうひとりは学生になっていて、私も教えをやりながら美術館でバイトして、リハをやって、自分の中でバランスを取るのが難しくなっていました。コンペで賞を取り、色々な人が「これから頑張ってね。」って道を引いてくれることにも戸惑いを感じました。

それぞれの世界がちょっとずつ大きくなっていた。

「1度出なくなったらもう2度と出られないんじゃないか?」と、舞台を止めることは恐ろしかったのですが、「これじゃあいいものはできない。」と思って、とりあえず1回スイッチオフしようと思いました。中国で出会った人達のように身軽に、どこでも生きて行けるように、手に職をつけようと、タイに古式マッサージの勉強をしに行ったんです。
タイマッサージは瞑想みたいなもので、寝ている人の身体を黙々と触り続けて行くとそれが自分と向き合う時間にもなりました。トークセンっていう木槌を使うマッサージで、仙人みたいなおじいちゃんに2時間ぐらい身体を叩かれたんです。ガンガン木槌で叩かれて、「歩いてごらん」って言われて起きて歩いてみたら、「こんなに身体って楽なものなのか。」と思いました。
私は小さい頃から踊りをやっていたので腰が痛いのは当たり前で、もう私のベストな状態が「ちょっと腰が痛い。」だったんです。「あぁ今までずいぶん自分の身体を酷使していたんだな。」と、自分の身体に「ゴメンなさい。」と思いました。
次に頭を叩かれ、「あなたはすごく頑張っていて考えすぎちゃうから、自分をいじめないでもっと大事に生きなさい。」って言われ、涙が出てきました。「涙で悪いものが一緒に出てくるから、泣きたいだけ泣いて。」って言われて涙が止まらなくなっちゃって。「上手くいかなきゃ!」とか、「踊っていかなきゃ!」とか、自分の中でしこりになっていたものがほぐれていくような気がしました。
タイに行って1度帰国してから、すぐにインドに行きました。「やっぱりインドには1度は行かなきゃ。」と思っていたから。

インドではどこに行ったんですか?

ヨガの聖地、リシケシという所に行きました。手に職としてもヨガはいいと思ったので、最初は下見のつもりでとりあえず1カ月半、来年また本格的に勉強しようと思ったんです。リシケシにはヨギーだけじゃなく、サドゥーとかババとかいう修行者もいっぱいいて、オレンジ色の布を着たサドゥーがお弁当箱みたいなのを持って、大きな声を出しながら歩いていました。

ヨガの学校でどんなことを?

最初は朝に2つ夕方に2つ、1日4回ヨガのクラスを受けました。身体は柔らかいから形は大体出来るんです。「その先が知りたいのになー。」って思いながらやっていたら、ある所ですごい丁寧に教えてくれて。
形だけじゃなく、プラナヤマって言う呼吸の事や、「これが出来ないなら肩甲骨をこうして。」みたいに解剖学的に解説してくれたり。ヨガ哲学も勉強しました。最初はホテルから30分ぐらい歩いてその学校に通っていたんですが、そのうち「もうこっちに来ちゃったら?」となって、先生の家に居候することにしました。そこで何人かと共同生活をしながら1日中がヨガになりました。

学校にはどんな人が?

日本人もいたし、日本人じゃない人もいました。その学校は日本人にチカラを入れたかったみたいで、私が英文を日本語に訳したり、できる範囲のことをお手伝いをするようになりました。世界中から来ているいろいろな考えを持った人達とも出会い、様々なできごとを経験し、あっという間に1カ月半がたって、「このままじゃ帰れない。今は帰るタイミングじゃない。」と思い、帰国を延期しました。
日本では、「今日はあっちへ教えに行って、明日はこっちに行って、それでいくらお金を稼いで、リハーサルもやらなきゃいけない。ああでしょ、こうでしょ。」って色々考えていたのに、こっちでは、「朝早く起きてチャイを飲み、ヨガをやってご飯を食べ、午後にまたヨガをやって晩ご飯を食べ、10時には寝る。」そんなシンプルな生活が自分にはすごくしっくり来たんです。

何を食べていたんですか?

豆と野菜の料理です。殺生がダメなので肉も卵もダメ。お酒も飲まない。ないものを欲しがっても仕方がないので、人間は「こういうもんだ。」って思うんですね。サブジってお野菜なんですけど、リヤカーでひっぱってくるサブジ屋さんとお友達になって、その日その日の野菜(豆とかオクラとかカボチャとか)を買って自分でご飯を作っていました。
一番痩せてた時は今より5キロぐらい痩せていました。ごはんも手で食べていたし、お腹が丈夫だったので水道の水も飲んでいた。日本でお腹壊して「ちょっとユルいかな。」っていう程度でした。お尻も手で拭いていたし、牛のウンチも平気になりました。
ただインドは人と人との距離がすごい近くて、個人の領域に平気で踏み込んで来るので、精神的には疲れました。雑魚寝みたいな生活で着替えるのも大変で、1人になりたくてガンジス川に脱走したこともあります(笑)。行くあてもないから結局また戻ってくるんですけどね。

どれくらいいたの?

結局、10ヶ月いました。8月に1回帰国してまたすぐに行くはずだったのですが、再入国のビザが取れなくて今に至っています。半年日本で生活して半年インドみたいな人達って結構いっぱいいて、私は本当はそういう生活が出来たらって思ってるんですけど、インドに行っちゃうと自分の人生が崩れちゃいそうで(笑)。
取りあえず今は、「日本で生活のベースをちゃんと作らなきゃ。」と思っています。ワガママ言うと、長期旅行ができるような仕事のスタイルで。

個人の表現が全てという感じで踊ってた頃から比べると大分変わりましたね。今は自分の表現にはこだわっていないのですか?

そこはたぶん生き様なのかなって思っています。生き様なんて言えるほど立派なものではないんですが、帰って来てそれなりに苦労というか色んな厳しさも味わって、感じたのは、やっぱりどんどん歳をとっていくじゃないですか。
そうなった時、女は顔がキレイとかじゃなくて、生き方とか物事をどう捉えて来たか、小さな事を怒りとして捉えるのか、ニコッと笑って流せる人なのか、そういうのが顔に出てくるじゃないですか。漠然としてるけど今はもうそれしかないです。それが私の表現なのかなと。

そういう生き様が表現だと?

そう。表現するっていうことに対しての狭さはなくなった。少なくとも中国に行った時に感じたものはもうないですね。ヨガを教えることだって表現だと思う。
教えって、何よりも舞台に立っている気分なんですよ。みんな自分を見ているし気を抜く事は出来ない。舞台は一方的でも、教えるのは相互に矢印が出てるから、10年続けていれば10年分のお互いの成長があるんです。ヨガであろうとダンスであろうと、今はこだわりはないですね。

色んな旅をしてきましたがこれからは?

とにかく人と繋がること。人と話すのもそうだし、踊ってそれをキャッチする人がいれば繋がれる、どんな繋がり方でもいいのでそれはやめたくない。普通の人はお勤めしている中でそれが出来るのかもしれないけれど、私はそういう人生を選ばなかったから。
最近、自分の中の要素が欠けている感じがして、「また踊らなきゃ。」って思っています。「踊って自分を爆発させて得られるものもやっぱりあるな。」と。
ヨガの生徒を集めるためにチラシ作ったり、自分でやってみて今まで見えてなかったことが見えてきたので、踊りも、誰かの企画に乗って「出ませんか?」「ハイ、出ます。」じゃなくて、自主公演とか大げさなものじゃなくても、「私、ここで踊ります。」ということを自分なりにやってみようと思います。
何を作るかより、自分がエネルギーをどう出して行くか、それが評価されようがされまいが、まず発信してそれをキャッチする人がいることで繋がっていく。それが自分なりの表現だと思うんです。経験や知識に関しては自信はあるし、これからも勉強して、色んなことをやっていきたいと思います。