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ダンス系
ダンサー・振付家

手代木 花野(2007年度・舞踊学専攻卒)

ダンサー・振付家


明日はわからないけど、今日は踊っている。

手代木さんは、大学時代ダンスをやっていました。卒業後も就職はせず、踊り続けていこうと決心しました。大学を卒業して4年目、現在は色んなダンスの現場で活躍しています。踊り続けていくために何が必要なのか、お話をお聞きしました。
<2012.07収録>

最近はどんなことをやっているの?

今は、CI部(チブ)の活動がメインです。「コンタクトインプロビゼーション」のテクニックを元にしたダンス作品を発表したり、ワークショップを開いたりしています。あと個人的に、色んなところに出演したり、振付けたり、教えたり、時々はバイトもしています。

コンタクトインプロビゼーションって?

コンタクトインプロビゼーションはもともと合気道から生まれたんですけど、40年くらい前スティーブ・パクストンっていうアメリカ人が、合気道みたいに相手の動きを利用してそのエネルギーをダンスに取り入れようとしたのが始まりです。
相手と接触したり、直接触れていなくてもお互いの関係性(例えば空間の中でこっちとあっちにいるとか)を持ちながら、相手の意識や重さ、力、呼吸、体温などを受け渡し合い、即興でダンスにしていきます。

CI部のメンバーは?

固定のメンバーは、同期でリーダーの宝栄と私の2人だけです。公演やプロジェクトごとに、その都度他のメンバーを募っています。公演など「ダンスの活動」に関しては部長の宝栄が仕切っていて、ワークショップなど「教育や事業」みたいなことに関しては、私が担当しています。と言っても、はっきり別れているわけでなく、面白いものがあったらお互いに「こういう企画はどう?」「これに応募してみようか?」とか言い合いながらやっています。

活動資金はどうしているの?

公演の場合は、主催者から助成金がおりたり、企画に乗ってお金を出してもらえたりする時もあります。最近は「出て」って言われた時は、わりとお金を出してくれるパターンが多いですね。あとはチケットの売上やワークショップで参加者の方から参加費をいただいたり。CI部の公演に出てもらった人達には、少ないですけどギャラをお支払いしています。

CI部以外はどんなことをやっていますか?

2010年に、小野寺修二さん主宰のカンバニーデラシネラの作品「異邦人」に出演しました。東京と高知の2カ所で公演して、今年の2月にも、世田谷パブリックシアターで再演の予定です。他にも、色んなところで声を掛けていただいて踊っています。

出演のお話はどこから入ってくるの?

実は私、オーディションって一度も受かったことがないんですよ。そういうお話は、今まで本当にツテでしかいただいていません。「異邦人」は、小野寺さんのワークショップを受けていて声を掛けられました。
「異邦人」に出るようになってから、お芝居の振付とか、学校のイベントでの振付とか、CMとかPV(プロモーションビデオ)の振付のお手伝いの仕事が入って来るようになりました。

出演料などは?

私にもいちおう生活があるから(笑)、まぁやれると言うか、かける時間(拘束時間)に対して生活出来るくらいいただけるというお話の時に受けるようにしています。大きい公演の時は、わりとまとまったギャラが入ってきます。
でもお金のことだけで考えたら、ダンスを仕事にするとしたら、「教え」とか「振付け」の方が効率がいいかもしれませんね。出演料は、公演が終わって全ての清算が終わってから入ってくるので、公演に出るための練習の期間とかも考えたら、やっぱりちょっと苦しい部分もあります。
教えもやっていて、おじいさんおばあさんに健康体操を教えたり、ちいさい子にバレエを教えたり、三鷹の小学校でヒップホップをできないのに(笑)教えたりしてます。でも私は好き放題に公演に出るタイプなので、自分の踊りが忙しくなると諸方面にご迷惑をかけるので、稽古場で定期的にダンスを教えるような仕事はしないようにしています。

他にバイトも?

ここ2、3ヶ月くらい踊りの方が忙しくて、バイトはしてなかったんですけど、最近またやろって思って。今は隔週で1日くらい、NHKのEテレ(教育テレビ)の番組で、AD(アシスタントディレクター)として出演者の対応をしています。あとごくたまに、大学の時からやってる近所のスナックのお手伝い。夜1時に閉まるのに23時から手伝いに行ったりするので、あまりお金にはなりませんけどね(笑)。

ダンスはいつから始めたの?

中学までクラシックバレエをやっていました。高校ではダンスはほとんど踊ってなくて、ミュージカルをちょっとやっていました。高校の頃は美術の先生になりたくて、美術系の大学に行こうと思い絵の予備校に行っていました。
そこでデッサンを描いていたら、ずーっと座ってることが辛くて無性に動きたくなってきて...。それでダンスをやろうと、親に黙ってニチジョの推薦入試を申し込んだんです。ニチジョは中学の時のバレエの先生の出身校だったので知っていた。
絵の予備校の学費を1年間分払ってたのに、途中で行かないってなったから、親にめっちゃ怒られて。でも受かっちゃったから、ニチジョにきました(笑)。

ニチジョに来て?

大学でまた踊るようになって、わぁーって踊った1年生の時はスゴい楽しかった。バレエしかやったことなかったので、靴を脱いで踊るとか、バレエのパじゃなく自由に踊るのが新鮮だった。モダンの舞踊団を初めてみた時は、「凄い!」って思い、舞踊団に入って踊っていました。
でも2年生になって、上手に踊ることや、舞踊団の「先輩、後輩!」みたいのに嫌気が差してきたというか...。と言っても、先輩にいびられるタイプでも無いので、苦痛に思う程の状況ではなかったんですが、踊ることに以前ほど魅力を感じなくなって、「踊りたくない波」がやってきました。

踊りたくない波ですか?

「踊りたくない波」とか、「ダンス作りたくない波」とか、「即興したくない波」とか、時々、けっこうわがままな波が来るんですよ(笑)。その時は「上手く踊るのがそんなに必要なことなのか?」って思っちゃったんですよね。それで、その頃ニチジョに出来たダンスプロデュース研究会で、制作のスタッフをやったりしていました。
1年生の時、振付家の岩淵さんが主宰している「DanceTheatreLUDENS」のワークショップに行ってみました。そこでコンタクトワークのクラスをやってて、私は群馬から来た体育の先生と組む事になり。その人70歳過ぎているんですけど、ずっと剣道をやってて、ガッチリしてて大きいんです。
その人が私の身体に乗っかってきて、すっごい重いんですけど、何か「重い」イコール「苦しい」わけじゃないって感じて、コンタクトって「面白い。」と思ったんです。
くしゃみが出そうで出ない...、

くしゃみは、ご自由に(笑)。

はい、...出なかった。
彼は「CIを教育にも取り入れたらいいんじゃないかと思って始めた。」みたいな事を言ってて、私は元々美術先生になりたかったので教育関係にずっと興味があって、彼の言っていることが凄いわかる気がして。彼に「勝部さんのとこに行くと良いですよ。」って教えてもらいました。
勝部ちこさんは、コンタクト界では名前の知れてる人で、世界中のコンタクトフェスティバルで日本のコンタクトの特徴として、空間の間、時間の間などの「間」っていう考え方を打ち出した人です。
2年生の6月くらいに、ちこさんの集中ワークショップがあるのをチラシで見つけて行ってみました。うまく踊るんじゃなく即興で好きに踊っていいとか、人と触れ合うこととかが面白くて、それからワークショップがある度に行っていました。

大学の頃、みんなでやってたグループ...。

バナナデイズ。健美祭でダンスコンテストに出て、まさかのグランプリと松徳会賞をいただき、みんなで山分けしたりしました。

あれでカンパニー作ってやっていけるって思ったけど(笑。)

バナナデイズは、本当はやろうと思ったんだけどなぁ。メンバーは7人くらいいて、細いのがいたり、ガッチリしたのがいたり、外人にしかみえない子がいたり、チビがいたり、170センチの子がいたり、すごいバラバラで、そういうのも面白かった。
でも私がみんなに「こういうのやりたい。」って言うと、いつも「嫌だ~。そんなことやりたくない」って言われるんです。何が嫌なのか、恥ずかしいのか、私にはわからないけど、言われてみれば、全身タイツとか、顔を黄色く塗ったりとか、嫌かもしれないなァ(笑)。
それをなんとか説得して、「まぁそれだったらやる。」っていうのだけで踊ったり。それだったらやる、それはやらないとかで、踊る人数が決まっていました。説得するのに凄い時間がかかるし、あんまり練習は出来ないから、いつも作品が短かい(笑)。

SHOWCASEで発表した「山」は面白かった。

あれは映画の挿入曲です。同期の神林があの曲を見つけてきて。彼女は面白い曲を聴いて一人で笑ってるのが好きなんですけど、その時私が、彼女の前でチュチュにみたててシャンプーハットみたいなものを腰に付けて、ちょっと斜に構えた感じでバレエを踊ってあげたら、凄い喜んで、あの作品になったんです。
あれはニチジョでもやったし、ダンスコンクールのエキシビションとか、舞踊学会とか、埼玉芸術劇場のエントランスロビーとか、芦花公園とか、結構色んなとこで踊りました。この間は、仙台の幼稚園でもやりました。
私、パロディーじゃないけど有名な作品を「自分で捉えたらどうよ。」っていうのが好きなんです。って言うか、作品のアイデアになるのはそういうのが多かった。

研究室は?

マイムにも興味があったので高野研究室に入りました。あの研究室の子は不思議ちゃん揃いと言われていて、メンバーが発表された時は、他の研究室の人に「うわぁそのメンバー、私だったらやっていけない!」って言われたりもしました(笑)。

卒業公演はどうでした?

あの頃は、連日夜の10時くらいまで踊ったり話し込んだり、映像を撮ったり、本当に、朝から晩まで卒公!って感じでした(笑)。同じ研究室の多田とは家が近かったので、帰りにセブンイレブンの前で夜中の2時まで作品について話し合ったり、で、「もう眠い。」って家に帰ったら、多田からまた電話がかかってきて朝の5時まで話してたり。
自分でいうのも何ですが、卒公の作品、私は好きです。リフトとか、パズルみたいに人が持ち上げられたり、運ばれたりするところの振りを私が作って、映像はみんなで話し合ったりしながらやっていました。

その頃は、卒業したらどうしようって思ってた?

有志の作品もやってたので、その頃は卒業公演であたまが一杯で、将来の事とか考えている余裕がありませんでした。でも多田と「卒公は就職する人には最後の公演かもしれないけれど、ダンス界の色んな人達が観に来るんだから、ダンスを続けるには自分を売るスタート地点だよね。」って話していました。
教育実習で体育の先生には向かないとわかり、同じ研究室には就職活動をしてる人が結構いて、どうしようと思ったけれど、結局「就職はないな。」と思って、「シュウカツはしない。」って決めました。
だから卒公の頃は、先の見通しは全然立っていなかった。でも3月末くらいまで公演が決まっていたので、「とりあえず受けたものはやらないと。」っていう感じで踊っていました。
その時、曲がりなりにも女子な私は、地元で知り合った彼氏がいて、「結婚しよう。」って言われたんです。

ほう。

だけど、「結婚しよ。」って言われた瞬間に「あっ、結婚しないな。」って思って...。

で?!

別れました(笑)。
卒業する時に、宝栄に「コンタクトインプロビゼーションを使ってダンスをやりたいから協力して。」って誘われました。宝栄とそんなに仲良く無かったし(笑)、なぜ誘われたのかもわからなかったけれど、「CI部を、自分のやりたいことに利用していいから。」って言われて、「じゃあ、私はCIを使って教育関係の事をやりたいので、その時には協力してもらうね。」みたいな感じで始めました。
同じ頃、C.I.co.の勝部ちこさんにも「卒業したのならうちのグループのメンバーにならないか。」って声を掛けてもらい、CI部とC.I.co.のを同じくらいの時期からやり始めました。

卒業してからは?

卒業した年、私、秋葉原で携帯電話の販売のバイトをしてたんです。6月に無差別殺傷事件が起こり、その日、たまたま用事があった私は、別の子にバイトを替わってもらいました。そうしたら、その子が事件に巻き込まれて、亡くなってしまったんです。
私のせいで亡くなってしまったようで、「私はダンスなんかやってていいのか...?」って思い、めちゃくちゃ落ち込みました。「ダンス作りたくない波」がやって来ました。

その波からどうやって抜け出したの?

色々考えて、人とコミュニケーションがうまく取れないような人があの事件を起こしたのなら、コンタクトインプロビゼーションをやることで、コミュニケーションがちゃんと取れる子を少しでも増やすことができるんじゃないかと思って...。
2008年の8月にCI部の立ち上げ公演をやりました。その後ちょこちょこ、横浜の赤レンガとか開港記念会館とかで作品を出したり、デザインフェスのイベントで踊ったりして、次の本公演が決まった2009年の9月くらいに、宝栄がロンドンのラパンセンターに留学に行っちゃったんです。
宝栄は1年くらい行っていて、その間はCI部を休止しました。その頃、ちょうど私はカンパニーデラシネラの「異邦人」に出演が決まって、そっちに出たりしていました。宝栄が戻って来たので、またCI部の活動を再開しました。勝部さんは鹿児島に活動拠点を移されたので、C.I.co.の活動は今はやっていません。
ティッシュ貰っても良いですか?鼻水が...。

どうぞ。それで卒業をして4年ですが、ダンスで食べて行く自信はつきました?

私は、未だにどう生きて行けばいいのか分かりませんよ。先輩のダンサーと話してもそう言うし、どんなに上の方にいる人でも、「明日は分からない。」と思ってやっているんだなって、最近ひしひしと感じます。
ずっとダンスで食べていくとなったら、いつかは定期的に教える事を選ぶかも知れません。教えることには興味があるので。ダンサーとして脚光を浴びて作品が売れてという生き方は、私の中ではあんまり自分らしいとは思っていないかも...。
東京で根を張るつもりもそんなにありません。東京で踊りたいんじゃなく、踊る機会があるから東京にいるだけです。このカンパニーが好きだから私はここにいるんだったらいいけど、踊る為に東京にいなきゃいけないっていうのはやっぱり悲しいですよね。
ダンスやアートが敷居の高いものでなく、日本の各都市にダンスの特徴があって、安い値段で毎日色んなものをやっていたりしたらいいなぁって思います。
私はやっぱり、地元のダンスを盛り上げたい。面白い場所もあるし、面白い人もいる。だから今、松島で「ダンス巡り観光船」っていうのをやろうと思ってて。舟で島々を回って、各島、各観光スポットでダンスを見てもらうんです。放送作家をやってる地元出身の友達と松島ラジオを作る計画もあります。
最近は「珍しいキノコ舞踊団」とか「コンドルズ」とか、ポップな人達が頑張っているから、テレビ番組やCMでも随分取りあげられるようになってきたし、コンテンポラリーダンスを説明する時、例えば「アセロラ体操みたいの。」って言うだけで通じるようになりました。やっぱりメディアの力は大きいですよね。

バナナデイズの作品では、観客とコミニュケーションする姿勢をすごく感じました。あれって、ある意味エンターテインメントじゃない?

私、なんだかんだ言って、エンターテインメント性が無いと嫌なんですね。だから、コンテンポラリーっていうことに、必ずしもこだわっていません。抽象的な作品も素敵だなって思うけど、自分が作品を作るとしたら必ずしもそういう風にしたいわけではないかも知れない。
「グラインダーマン」というパフォーマンス集団の作品に出た事があって、それは黒い箱を被って鉄を削りながら、観客を巻き込んだりするようなことをやるんです。「ドドド・モリ」っていうグループにも、時々出るんですけど、お客さんの笑いを狙って行く趣向があるので観客の反応によって作品が変わっていきます。
そういう作品に出たことで、一方的に「自分を見て、見て。」だけじゃなく、観客へのサービス精神を出し入れすることを学びました。あるシーンでは完全にこちらの世界に入ったり、あるシーンでは観客の方に歩み寄っていったり。観客とコミニュケーションすることで、舞台がどう見えているかわかります。
例えば「異邦人」のあるシーンで、観客が笑ったりすると「ああ、観客にはそう見えてるんだ。」ってわかったり、リハの時「2秒の振り作って。」とか、ストップウォッチ持って「あとコンマ何秒短くしよう。」とか、ほんとにコンマ何秒の「間」を待つか待たないかで観客の反応が違うので、そういうのも細かく考えるようになりました。
そういう、観客の反応によって成立していくような作品が好きです。それってたぶん、エンターテインメント性と関係あると思っているんですけど。あと、作品の中に色んなこだわりを入れておくことで、全員の観客に1つでも好きなところがあったら、大きく言えばその作品を好きになってもらえるというか、そういうやり方も学びました。

ニチジョで学んだことは役立っていますか?

バレエという1つのジャンルしか知らなかった私が、ニチジョで色んなダンスを教えてもらいました。スポーツも全然出来なかったし、ダンスはアートでスポーツじゃないと思っていたけど、ニチジョに行って、身体とダンスのつながりはすごく考えるようになった。身体を駆使すると言うことに対してプライドが持てたのはニチジョに行ったからだと思う。
私はダンスを切り取った1枚の絵として見ちゃうんですけど、身体がきれいじゃなかったらその絵がきれいにいかないから、身体はマテリアルで、ダンスは身体を使うアートなんですね。

ダンスを作る時、音楽はどれくらい意識していますか?

バナナデイズの時に「ウクライナ」っていう作品があるんですけど、みんなでスーツ着てコサックダンスみたいに踊るやつです。あれは曲が面白かったので作ったんです。そういうのは音楽が先にありきです。
興味を持ったものによってスタートが違うんですけど、振りを作っている時は、何となくこういう曲とか、ここはノイズとか、ここは無音とか、イメージがあるかも。そのイメージに近いものを探したり、練習場でたまたま出会った曲で「この曲ならこうなっていく。」ってなったり...。
コンテンポラリーダンスって、リズム曲なのにリズムは無視してわざと淡々と踊ったり、音はBGMな事って多いじゃないですか。リズムに乗せるんじゃなくて曲そのものに乗せるというか、この曲で踊るとしたらこうなるみたいなのがあって、それはメロディやリズムじゃなく、間なのかもしれないです。
ワーって曲をかけてる時もあれば、無音にする時もあるし、めっちゃ踊ってる時もあれば、ただ立ってる時もある。「音はここで必要」「ダンスはここでこのくらい必要」というように、表現したいことのために必要なものをフェーダーで調整するイメージ。私はダンスのフェーダーを扱う者として、音楽や映像、言葉にもちょっと力を借りたいということのかな。

ニチジョ生にメッセージを

ニチジョには400人もダンサーがいるから、それはそれである意味ひとつのダンス界であるけれど、そこで納得はしない方がいいと思います。ニチジョの中では活躍してたのに、卒業したらダンスでの生き方がわからないっていう人もいます。
今のニチジョ生はダンスプロデュース研究部が外から振付家を呼んだりして、外の世界と繋がる場が増えたから、羨ましいと思います。上手く出会えた人は、卒業後も振付家のもとで踊れたりもできるし。でも所属をしたからと言って安住もできません。常に今いる場所からステップアップすることを考えていないと。
大学は、踊る事は一生懸命教えてくれるけれど、ダンスで生きて行く為の処世術は、教えてはもらえません。それは自分で作っていくしかない。だから大学の中だけで完結しないようにした方がいいと思います。大学には色んな情報が集まって来るし、きっかけが色々あるので、そういうのを受け取っておくと世界は広がる。踊り続けるなら、卒業はゴールじゃありませんよ。

笠井叡さんのワークショップで、学生が「フリーターやりながら、ダンスをやっていけるものでしょうか?」って質問していました。「僕だって今日、ワークショップというフリーターをやりながら、ダンスをやっている。ダンスっていうのはそういうもんなんだよ!」って言われていて(笑)。「あぁ、この人でもそういう心境なんだ。」って思いました。