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ダンス系
振付家

磯島 未来(2006年度・舞踊学専攻卒)

カンパニー主宰


ドイツで出会って踊って考えたこと…。

磯島さんは、ダンスをするために2年間ドイツに行ってきました。向こうでどんなことを体験したのか、お聞きしました。
<2011.05収録>

ドイツにいたんですね?

はい。文化庁の「新進芸術家海外留学制度」の研修で2年間行っていました。研修は1年と11カ月ですが、2カ月滞在を延長したので正確に言うと2年と1カ月です。去年の11月に日本に帰ってきました。

行こうと思ったのは?

大学生の時に、文化庁の国内研修員として1年間支援を受けて、海外留学制度があることは知っていました。大学在学中に、ニチジョの先輩2人と「ピンク」というダンスユニットを作って、卒業後も派遣社員で働きながら活動していたのですが、卒業して1年半ほどたって海外留学制度に応募してみました。

応募する時に、自分で場所を選んで、受け入れ先も自分で決めるのですが、私はドイツに行くことにしました。半年後に書類選考が通り、面接を受け1カ月後には行けることになりました。それで、「ピンク」の活動は一旦お休みして行ってくることになりました。その時は、また戻って来たら活動を再開できると思っていました。

どうしてドイツに?

ドイツというより、ベルリンに興味があったんです、始めはドレスデンという街にある大学に行こうと思っていたのですが、視察に行ったらそこはちょっと自分の肌に合わなくて。どうせならベルリン市内に住みたいと思い、ダンススタジオをあたって受け入れ先としてお願いすることにしました。

2年間やりたいことに打ち込んで暮らせる、いい制度だね。

よく考えたらほんとですよね。けれど行った当初は、そんなことを思う余裕もありませんでした。初めてのヨーロッパだったこともあり、頼れる人もいなく心細かった。

やっと生活に慣れてきて、「なんてすばらしい制度なんだ。」って実感できて来た頃には、もうカウントダウン状態でそのまま帰国となった感じです。

ベルリンに着いて始めにしたことは?

部屋探しです。始めの3週間は、日本に居る時に日本人コミュニティサイトで見つけた部屋に居たのですが、そこは3週間しかいられなかったので、行ってすぐに新しい部屋を探しました。

7、8件見て、最終的にドイツ人とシェアの物件に決めました。向こうではシェアが普通で、そのための検索サイトもあります。一人暮らしも考えたんですけど、始めの頃はどの地域がどうともわからないし、まずは言葉を覚えたいと思ってシェアすることにしました。

同居人はドイツ人の女の人で、音楽DJをやっていました。お部屋を見に行った時に、私がダンスをやっていると言ったら話がはずんで...。年はよくわからないけれど10歳くらいは上だったと思います。

ベルリンはどんな町ですか?

東京23区の半分よりちょっと小さいくらいで、電車で30分もあれば端から端までいけます。みんなチャリで移動していましたね。人口は370万人ほどです。

昔は旧西ドイツ領だった西ベルリンと、旧東ドイツ領だった東ベルリンに分かれていて、今でも西と東出は雰囲気が全然違っています。どちらかと言えば西の方が静かで整っている感じで、東のほうがちょっときたなくて旧市街の雰囲気がありました。カフェとか面白いお店は、東の方が多かった。

ドイツ人とシェアしていたお部屋は東にあって、ベルリンでもけっこう危険な地区と言われていて、夜12時くらいに駅から出てくると、ウイークデーでも「葉っぱ」をやっている人がたむろしていたりして「これぞベルリン!」という感じでした。みんなにここに住んでるって言うと、びっくりしていました。

スタジオは?

ベルリンには、3、4箇所のダンススタジオがありました。私が主に行っていたスタジオは、雰囲気がゆるくて、ちょっとマニアックな講師が多かった。

どこも午前中は、仕事としてダンスをやっているプロ用のクラスがあって、毎週講師が替わるので、それによって今週はどのスタジオに行こうと決めていました。いちおうプロフェッショナルコースとなっていたけれど、そんなにレベルは高くないんですよ。趣味で来ているおばちゃんたちもいました。

何を持ってプロと言うかですが、多く来ていたのはフリーのダンサー達で、プロジェクトごとに2~3ヶ月リハーサルをして本番で踊っているので、公演がないオフの間にからだを動かしに来ていました。

私は、朝から昼過ぎまではだいたいスタジオで踊っていて、夕方からまた、初・中級のバレエのクラスに通いました。バレエが苦手なので、最初は頑張ってプロのクラスに行ったんですけど、時間もたっぷりあるので最初からやろうと思って。

最初の頃の生活はどうでした?

半年くらいは、まだまだ時間があると思って、オーディションもそんなにガツガツ受けていませんでした。最初はむしろ生活の基盤を作るのに必死でした。言葉が通じないのもあって、銀行口座とか保険とかビザとか、事務的なことへのストレスが多かったですね。

たぶん、行った時期も悪かったんでしょうけど、10月の終わり頃なので、夕方4時になったらもう暗くなるんですよ。友達がいなかったのもあるし、心に余裕がないから、ダンスとか観にいっても感激も少なく...。ダンスのレベルも思っていたほどではなくて、日本は作品のクォリティやダンサーのうまさでは、それほど劣っていないんだと思いました。

そんな感じで生活はあまり楽しくなく、それで結構ふさぎこんじゃって...。早く日本に帰りたくて、毎日カレンダーにバツをつけていました。同居人が色々気を使ってくれて、友達の家のパーティに連れて行ったりしてくれました。DJなので部屋にCDがいっぱいあって、その頃は良くそれを借りて聴いていましたね。

ビザは?

学生ビザです。ビザを取りに行く時、最初は自力でと思ったんですけど、「"外人局"が英語で話してくれなくてあせった。」という日本人の話を聞いていて、「私には増して無理。」と思って途方にくれていました。最後の最後に同居人に頼んだら、「え、最初から行くつもりだったよ。」って言われて...。それはほんとに助かりました。

他の研修員は、労働ビザの人もいるし、研究員みたいなビザの人もいて、同じ書類で同じ研修で来ているのにビザは決まっていないみたいでした。

ところで何語で話していたの?

同居人とは英語で話していました。私は日本で週に一回英語教室に行っていたくらいでしたが。ドイツ人は、みんなけっこう英語が話せるんですよ。ドイツ語って英語と文法が似ているらしくて。でもアメリカ人に言わせると、ドイツ人の英語は訛りがひどくてわからないということでしたが。

最初の1年くらいは、ほとんど英語を使っていました。スタジオでも半分以上は外国人なので、レッスンは全部英語だったし。ドイツ人の振り付け家の作品に出る時も、クリエイション(ダンスの制作)の時とか、リハーサルは英語でやっていました。

レッスンが終わった後にみんなでお茶をしに行った時、講師の1人に「僕が言っていることを理解していないだろ。」って言われました。ポイントポイントでは大体わかるんだけど、細かいニュアンスがわからないので、同じように踊っていたんです。「言葉がわからなくても、ダンサーなんだから身体で感じ取れるようになれよ。」って言われました。

2年目くらいから、頑張ってドイツ語を使うようにしました。ドイツ語学校にも半年通い、そこで出会った人たちがみんな面白くて、プライベートでも遊ぶようになり、ドイツ語がだんだん上達してきたので。ダンスしに行ってるので、ほんとはドイツ語なんか習っている場合じゃないんですけど。

ずっと2人で住んでいたの?

3月頃に1人暮らしを始めました。同居人には色々助けられたんですけど、やっぱり人と一緒にいるのが、私あんまり得意じゃなくて...。向こうの人ってみんなで集まるのが大好きで、しょっちゅうパーティするんですよ。たまにならいいんですけど、それがずっと続いていて...。そんな時に、たまたま一人暮らし用の部屋が空いたということを聞き、見に行ってみました。

西の方で、中心地からはちょっと離れていたんですけど、リビング兼キッチンと寝室、バス・トイレ付きの45平米で、家賃は300ユーロだから、日本円で3万5千円くらい。駅から1分もかからないし、東の激しすぎる環境もちょっと嫌だったので、急遽引っ越しすることにしました。

1人暮らしはパラダイスでしたね。広すぎて、最初の頃は持て余していました。結局帰国までそこにずっと住み続けました。でも遊びに行くのは結局東の方だったので、「もう一度引っ越しするなら、次は絶対東だな。」って思いました。

意外ですけど、ベルリンは北ヨーロッパの中では物価が安くて、だからダンサーやアーティストが集まってくるんですよ。ドイツのダンサーの8割くらいはベルリンに住んでいました。他の町で仕事が決まると留守の間お部屋を人に貸したりして。だから、日本に帰ってきて部屋を探すとなった時、「家賃、高すぎ!」と思いました。

その頃には生活に慣れてきた?

5月くらいになると、日も延びてきて精神的にも楽になってきて、友達もだんだん増えてきてポジティブに動けるようになってきました。オーディションもちょくちょく受けていて、受かったりだめだったり。オーディションがだめでも自分でなんかやればいいかと、知り合いに誘われて踊ったり、小さなカフェや音楽スペースとかで即興で踊ったりしていました。

クラブにもたまに行きました。向こうはクラブ文化で、日本と違って若者だけが行くわけではなくて、みんなが普通に遊びに行くところなんです。そこで、音楽を作っている人や映像作家と知りあったりしました。あと美大に通っている友達も多かったので、美術館やギャラリーに行って、作品について語り合ったり...。

日本にいた時はダンサーとしか関わることがなかったから、ダンスよりも逆にそういうことの方が新鮮でした。色んな人と出会えて、ほんとに世界が広がったと思います。

また秋になる頃に、違う町にオーディションを受けに行ってきました。そこにいる振り付け家が、国からサポートを受けて毎年作品を作っていて、新しいダンサーと新しいものを作りたいとオーディションをしていて。それに受かって、その町にしばらく住むことになりました。

6週間、月曜から土曜の10時から5時まで毎日クリエイションをやりました。ピナ・バウシュの影響もあるのか、ドイツでは演劇チックなダンスが盛んで、セリフを使ったりするのが多かったですね。私がそこで関わった舞台もそうでした。

クリスマス時期の7、8週目に本番をしました。だだっ広い部屋を舞台装置で埋め尽くしたような舞台で、舞台美術がとても凝っていました。ベルリンからも友達が観にきてくれ、リハーサルの後は一緒に名物のクリスマスマーケットを見に行きました。

私のビザではオーディションに受かってもギャラはもらえないんですが、そこは交通費や宿泊、食費などで面倒を見てもらっていました。

ドイツのダンス環境について、どう思いました?

日本と比べて、ダンスを仕事としてやっている人は断然多いと思いました。みんなそれだけで食べていっているんですよ。フリーのダンサーも、アルバイトなんてしてなかったので。小さいプロジェクトでも、ギャラはしっかりしているようでした。

ダンサーにとっては、いい環境ですね。

助成金などの、バックアップ体制がしっかりしているんでしょうね。チケット代も安いから、みんな観に行きやすいんですね。日本はほんとにチケットが高すぎますよ。ドイツでも劇場の人たちは不景気だと言っているらしいですが、それにしても日本とは比べようがないですね。

だから日本からみんなダンサーが動いちゃうんですよ。フォーサイスとか(日本人の人が2人います)、有名なカンパニーに入ったら、普通に企業で働いている人と同じくらいの給料がもらえるみたいです。ニチジョの同級生でも、今ブリュッセルのカンパニーで働いている人がいます。

自分のダンススタイルは、うまく出せました?

最初は難しかったですね。オーディションでも、私は急には出せないタイプなので。でもクリスマスの公演の時はわりと自分が出せたというか、ソロのシーンもあって、そこで自分の動きを取り入れてもらったりしました。

振付けの時に、日本的な要素を期待された?

その時は、私が日本人ということはそんなに意識されなかった。韓国人ダンサーもいて、その人はオーディションで韓国舞踊をやって本番でもやっていました。滞在最後の方に、違うドイツ人の人と一緒に作品を作った時は、日本舞踊の動き方を教えろとか、もっと日本というものを出してもらいたい、日本語のセリフを使いたいとかがありました。

舞踏に関しては?

ドイツでも舞踏は結構人気があって、やっている人も多いんですよ。ベルリンに日本人の舞踏家が2、3人いて、自分のクラスも持っていてコアなファンがついていました。

向こうで舞踏を観に行ったこともあります。足の長い人たちが舞踏をやるとそれがまた怖い感じでしたが、なんかちょっと違うなって思いました。山海塾が公演に来ていて、大きなフェスティバルのオープンプログラムで踊って、その時は大きなホールが満杯でした。

私は、オーディションで即興でやってくださいって言われて、なぜか終わった後に「舞踏をやっていたの?」って良く聞かれました。舞踏を習ってたわけでもないし、増してそれを武器にとは思っていなかったのですが。

2年目に入ってどうでした?

ドイツに行って、ソロで作った作品はいまいち自分の中で自信が持てなかったんですけど、2年目の春くらいから、やっと自分の中で合格点を出すことができました。2年じゃやりきれてないところがあったし、1年目より2年目のほうが人脈も広がって活動できていたので、3年目はもっといける予感がありました。だからなんとかもう1年はいたいと思っていたんですが...。

あるアメリカ人の振付家がいて、日本ではあまり知られてないんですけど、向こうではけっこう知名度が高い人でした。私は別に有名な人がそんなに好きな訳じゃないんですけど、その人の作品だけは「うわっ!」てやられちゃって、「この人につきたい。」と思って、知り合いづたいに話をしてもらいました。

でも、「今はダンサーを募集していない。」ということでした。でも気が済まなかったので、彼女が出した本のトークショーに行き、終わった後に少しお話を聞かせてもらいました。「オ-ディション、ないんですか?あともう何カ月かで日本に帰る予定なんです。ワークショップでもなんでもいいから受けたい。」って言ったんですけれど、「オープンにそういうのをやっていないし、今は新しい作品を作っていて、当分新しいダンサーはいらない。」って言われ...。

その時、「ああ、じゃあもう、ここにいる意味がないのかな。」と思いました。

それで日本に戻ろうと?

ドイツでは、みんなに「どうして日本に帰るの?」って言われました。こっちに帰ってきた直接的な理由は、地元八戸での公演が決まっていたからです。帰る半年前くらいにオファーがきて、京都のJCDNが主催で行っている『踊りに行くぜ』っていうプロジェクトで、八戸に新しいポータルミュージアムができるので、そのオープニングで作品を創ってみないかというものでした。

メインの振り付け家の山田珠実さんの演出補佐ということで参加したのですが、自分の地元のミュージアムのオープニングイベントに関われたことは名誉だし、嬉しかったです。帰ってすぐにクリエイションが始まり、今年の2月に本番で踊りました。

ドイツで、向こうの人と感覚的な部分で分かち合えましたか?

ベルリンでは、仲のいい友達でも「あそこが良かった。」って言うと、「いや私はそう思わない。」って必ず意見が分かれるんですよ。それはそれで自分の世界が広がるのでいいんですけど、やっぱりどこかで、何も言わなくても通じ合える関係を求めていました。「ピンク」の時のように、「あそこで泣けたね。」「うん泣けた。」みたいな、あうんの呼吸っていうか、お互いに感覚が似ていて同じものをいいと思える関係...。ドイツでは、それは通用しないと思いました。

でも最後に出会ったドイツ人とは、好みも感動するポイントも似ていたんです。ただそれが作品を作る上でうまくいったかというと、それはまた別でした。

彼は、演劇をやっている俳優で、私がたまに借りていたスタジオを彼も借りていて、私がパフォーマンスした時に観に来て、興味を持ってくれました。その後もダンスを一緒に観にいったりして、「あそこの曲が良かった。」「あそこのシーンが良かった。」とか、意見が一致して盛り上がったんです。それで、「なんか実験的にやってみよう。」って言われ、やってみました。

帰国直前だったので私はバタバタしていて、私は純粋にダンサーとして関わるつもりだったのですが、途中から、「私のアイディアも欲しい。」って言われ、「アイディアは出すけれど、振り付けや演出家として関わるには時間も足りない。」と言ったのですが、彼は全然わかってくれなくて、あらゆることで揉めて...。結果的に時間がかかって、最後には泣きながら「やる」「やらない」の話に発展して、ほんとにもう大変でした。

いつもならそこで一歩引いちゃう私ですが、「今回ばかりは、悪いけど言わせてもらうわ。」って、こんなに私が人に言うんだっていうくらい喧嘩して、おかげでだいぶドイツ語が上達しました(笑)。そんな感じで、すったもんだしましたけど、公演が終わった時は、「最後の最後に、やっと自分をだせた。」と思いました。観にきた人たちも、「一番良かった。」って言ってくれました。

ドイツに行ってみてどうでした?

2年もいたんだなあ...。今となっては懐かしいですね。あんまりゆっくり振り返ることもなかったから、帰って来て半年ちかくになると、もう遠い世界のように感じます。

なんか、「世界はそんなに変わらないかも。」って思いました。ダンスを取り巻く環境は違うにしても、日本のほうがやりやすいところもあります。こっちには私が「何かやりたい。」って言うと、「じゃあやろう。」と乗ってきてくれる人がいるし。

これからは?

今は踊ることより、作品を作ることに興味があります。できれば振付家としてやっていきたい。自分のカンパニーというほどのものでもないのですが、一緒にやろうっていうグループを作りました。とりあえず6月の公演にむけて頑張りたいと思います。

今週からまたアルバイトを始めました。公演をするにも稼がないと。ダンスの仕事なら「教え」とかもあるんですが、今はそういうことじゃないような気がして。いい服を着たいとか、お給料がいいとか、ダンサーとして有名になりたいとか、そんなことはどうでも良くなって、作品以外のことには興味が持てなくなってきました。

大事なことはひとつだけでいい。ただ自分の納得のいく作品を作っていければ...。ここ3年が勝負だと思っています。

頑張ってください。ところで「ピンク」は?

実は2人とも今はダンスとは離れてしまっているので復活は難しいかな。日本を離れる時は、帰ってきてからも3人で踊れると思っていたんですけど、「あ、もう踊れないなんだな...。」って。離れてみて2人の大切さを思い知りました。