資格・就職

HOME > 資格・就職 > OG図鑑

営業系
マンションデベロッパー

山辺 千秋(2007年度・舞踊学専攻卒)

マンションデベロッパー会社


いっぱい悩んで決めました。

マンションデベロッパーに勤めていた山辺さんは会社が民事再生法の適用を受けるという経験をしました。
<2010.03収録>

その後の会社のことを聞かせてください。

会社があんなことにならなかったら、仕事は続けたかった。すごくむずかしい仕事だったけど、もっと勉強したかったと思っています。

民事再生になったいきさつは?

前からサブプライム問題を引きずっていたのですが、リーマンショックの直後に会社の経営が急激に悪化しました。東証に上場している会社なので、四半期決算報告を株主に対して出すんですけど、それが滞ったんです。そうなると、いつまでに発表するという声明をださなきゃいけないんですが、その発表の日がXデーになるんじゃないかという噂が流れていました。

その前から、アルバイトも雇わなくなっていて、それまでアルバイトがやっていたチラシの投函は、入社3年目までの社員がやることになりました。私もショールームの事務所に出社したらすぐジャージに着替えて、チラシをポストに投函し始めました。

11月の末の日、いつものようにチラシを投函していたら、事務所から「すぐ戻ってきて。」って電話がかかってきて、「今から社長が東証で会見するから」って言われ、テレビを見ると「ああー。社長、謝っている...。」って。事務所の電話がばんばん鳴っていました。

その時点で売れ残っている不動産は全て負債になり、負債額はその年の何番目の記録で、その上はもうリーマンの子会社?みたいな巨額の負債でした。

その後は?

業務停止になったので、翌日から仕事が何もなくなりました。3日間くらい廃人のように過ごしていました。契約者の方から電話がかかってくると、「正直私たちもわからないんです。ほんとにごめんなさいって。」って謝って。怒られましたけど、ほんとに情報がなくて何の説明もできなかった。

1週間くらいは営業もできず、事務所の備品も、法律で保護される最低限のもの以外は全部引き払われて、冷蔵庫も給湯器もなく、机とプリンターだけになりました。

営業を再開しても、お客さんはまったくこないので、1日中チラシの投函をやっていました。朝事務所に行って、ジャージに着替えて3000枚くらいのちらしを背負って。もう12月になっていて、雪が降ったりした日はほんとに寒くて、泣きながらやっていました。「こんなことするためにこの会社に入ったんじゃない。」って思いました。

マッチ売りの少女みたい。

マンションのポストって、チラシ投函禁止とか書いてるじゃないですか。管理人さんや住人に怒られたりするんですよ。「日本語読めないの?」とか、「どこの会社?」って言われ、社名を言うとまずいから、「自分はバイトなのでちょっとよくわからないんです。」とか言っていました。

初めての冬のボーナスのはずだったのに、当然ボーナスも出ないし。休んでる場合じゃないって、週休1日だけになっちゃったり。寒いなか一日中チラシを配っているので、からだもきつくて、ほんとにつらかった。そんな生活を2ヶ月続けて、もう無理と思って私は会社を辞めました。

それまではショールームでお客様の案内をしていたんですよね。

そうです。高級マンションだったので、服装をちゃんとしなさいとか言われて、ネイルして髪もきれいに染めて、きれいなスーツ着て、いい時計をしてやってました。

私、1件だけ契約を取っていたんですよ。新卒で初めて契約をとったのは私が1番だった。でも申し込みから契約に至る間にあんなことになって、キャンセルになりまぼろしの契約に終わりました。

工事も止まっちゃったので、建物の完成がかなり遅れました。そこに引っ越すはずだった人はほんとに大変で、それまで借りている家を更新しなきゃいけないとか、今住んでいる家を売っちゃって住むところがないとか、1件1件そういうことに個別に対応していかなくてはいけなかった。

私の上司も、自分の家を建て直すためにそれまで住んでいた家を壊して、仮住まいしていたんですけど、その間に会社があんなことになって、ローンが組めなくなっちゃったんです。「どうする、住むところないよ。」って。奔走して高金利でどうにかやっと貸してくれる銀行を見つけました。

会社に残った人は?

少ないですが同期は数人残っています。つらく苦しいチラシ配りを乗り越えて。会社全体では3分の1くらいになりました。でも皮肉なことに今すごいマンションが売れているんですよ。うちの会社の物件はものはよかったので、過去の物件を超破格で売っていたりしてそういうマンションはほんとにお買い得ですよ。

でもいくら売れても、民事再生中だからボーナスはでないし、休みはまだ隔週休2日です。民事再生法って、社員の給料は確保されるらしいんですが、ボーナスまでは保証されない。会社に残っている同期の人たちは忙しくて大変そうで、「割にあわない。」って言っています。でも、今の私の話を言うとみんな、「ごめん。山辺の話聞いたら、オレもっとがんばれるわ。」ってなりますけどね(笑)。

現在山辺さんは、現在はダンス業界で働いています。
(詳しい話はこちら)

<2009年11月収録>


山辺千秋さんは、働き出して3か月の社会人1年生です。山辺さんの会社は、マンションを作って販売しています。学生時代にやってきた舞台と就職のどちらを選ぶか悩みぬいた結果、今の就職先を選びました。
<2008.06UP>

今の仕事についたきっかけはなんですか?

きっかけは、就職情報の会社が主宰している合同説明会です。色々な企業がブースを出していて、そこで出会った会社でした。不動産や建築には全く興味がなかったのですが、会社の説明を聞いているうちに、面白いかもしれないと思いました。

合同説明会に行ってからしばらくして、会社で開かれた説明会に行ってみました。会社の第一印象は、社内の雰囲気が明るくて、社員もスマートに働いているなあって気がしました。でも、入ってみたら仕事は激務だったんですけど(笑)。会社訪問をしていると、たまに、社員の方の顔色が悪く空気が淀んでいるなって感じる会社もあるんですよ。

その後、面接でこの会社に何度もいきました。この会社には、リクルーター制度というのがあって、学生1人に対して先輩社員が1人ついてくれるんです。入社3、4年目の現場の社員が担当していて、人事とか採用にはいっさい関係しません。だから、会社の事や仕事の大変さなど、色々なことを本音で話してくれました。忙しい仕事の合間を縫って面談してくれて、ひとりひとりの学生をすごく大事に扱ってくれているなと感じました。

業界のことについて簡単に教えてください

私の会社は、不動産業でマンションデベロッパーとも呼ばれています。土地を仕入れて、マンションを建てて、販売しています。土地開発のマーケティングから、物件企画、設計・施工管理、販売営業、アフターサービスまで、一貫体制でやっています。会社の規模は全部で300人ちょっとです。

販売している物件は、どちらかといえば価格の高い、富裕層向けのものを多く扱っています。いわゆるデザイナーズマンションというのかな。面積あたり単価は高いけど、内装や設備も豪華でこだわりのあるものを使い、耐震性や壁の厚さもすごいという...。そういう話は研修の時に叩き込まれました。価格は土地によって様々ですが、高い物件では4億円を超え、安い物件だと3千万円台からあります。

サブプライム問題などもあって、不動産や住宅業界は変革期を迎えているようです。私の会社も色々なことを改革しています。以前は、隔週休で勤務時間もあたりまえのように終電まで働いていて、お給料もそれなりに高かったのですが、今は、きっちり週休2日(火・水)にして帰る時間もちゃんとしようみたいな。そのぶん、お給料も少し下がってしまいましたが...。ただ、他の業界と比べるとお給料は高いほうだと思います。

どういう仕事をしているのですか?

会社には、営業や企画、設計管理部門などがありますが、私は営業として採用されました。1か月間本社で研修をして、その後ジョブローテーションといって、2か月ごとに違った部署に仮配属されます。おとといまでは川崎のショールームにいて、昨日から保土ヶ谷のショールームに通っています。土地や物件によって、客層も変わり接客の仕方も違うので、色んな現場を知って勉強する必要があるんです。

保土ヶ谷の物件は高額物件なので、ショールームも豪華でりっぱなフロントがあり、見に来ていただいたお客様に、特注のハーブティーなどを革の小箱に入れて、いかがですかってお薦めするような感じです。私はそこで営業のアシスタントをやっています。接客は、まだまだやらせてもらえません。1年間は、本社も含めて色々な部署をまわり業務を体験することになっています。

売っているモノがモノなので、会社の社員教育も、言葉使いはもちろん身だしなみや持ち物に至るまで、結構うるさく言われます。この業界にしてはめずらしく女性が多くて、社員の男女比は半々くらいです。不動産業界にありがちなマイナスイメージを払拭するねらいもあるようです。どんなに忙しくても自分の外見を美しく保っている先輩社員を見ると、素敵だなと思います。

体育大出身の人はいますか?

私は舞踊学専攻でしたが、まわりには、ダンスやっていた人はもちろん、体育大学出身の人も全くいないです。私と同期の新入社員は35人でした。学部としてはやはり建築をやっていた人が結構います。あとは普通の大学(こういう言い方は偏見かもしれないですね...)の卒業生です。

ダンスのこと?うーん、あんまり話さないですね。自分が大学時代どういうことをやっていたかとか、わかってもらえるように話すのも、大変ですし。ただ私が、ダンスをやっていたのは、みんな知っています。職場の人は、コンテンポラリーダンスという言葉を覚えてくれました。「山辺は、アレでしょ、コンテ、エーっと、コンテンポラリーダンスでしょ。」って。みんな、言ってみたいだけーみたいな(笑)。

学生時代は何を目指していましたか?

小さい時からバレエをやっていて、それでニチジョに入りました。その頃の、将来の仕事のイメージは、漠然と踊る仕事、または、自分が踊らなくてもダンスに関係する仕事ができればと思っていました。音響とか照明とか、そういう舞台スタッフの仕事にも興味はありました。会社に入りたいとは思っていなかったです。

踊る仕事というのは、ディズニーダンサーみたいなことをなんとなく思っていました。でも、ある時オーディションの募集要項をチラッと見て、自分にエントリーできるのは(身長が低いので)ドナルドしかないとわかり、そのことは頭から消え去りました。その頃は、大学で色んなダンスを踊れれば、それでいいと思っていました。でもダンサーとしてやっていきたいとはあまり思わなかった。

入学してからは、コンテンポラリーダンスが面白くなって踊っていましたが、他のみんなも当然のようにダンスがうまく、ニチジョにはすごく才能がある子がたくさんいました。私は、なんとなくダンスで大学にきたものの、ダンスでイチバンになることはできないなって思いました。というか、もともと全然イチバンじゃないんで、ショックでもないんですけど(笑)。

でも私、実は、すっごい負けず嫌いなんです。踊りとか振付けでは、私はここでは絶対にイチバンになれないってわかった時、「じゃあ、アタシはこのニチジョでどうしたらイチバンになれる?」って思いました。これホントです。何かでイチバンになりたいって思いました。

大学2年の時、父の仕事がうまくいかなくなり、弟の高校進学と重なって、家が経済的危機に落ち入りました。大学をやめなくてはいけないかもという状況の中、結局、奨学金を借りる事ができて、その危機は乗り越えたのですが、その時「私は別にダンサーを目指しているんじゃない、じゃあ何のために(奨学金まで借りて)大学に行くの?」って真剣に考えました。思えば、それが私の転機だったような気がします。

ちょうどその頃、ニチジョのサークル「ダンスプロデュース研究会」(ダンプロ)の活動が、「山手線」という公演を前に、大きく動き出していました。先輩の梶原さんが2代目の部長でした。私は梶原さんにお願いして、公演のお手伝いをさせてもらうことにしました。そして、舞台公演には「制作」という仕事があることを知りました。

それはどんな仕事ですか?

「制作」というのは、舞台公演の進行にまつわる全てを処理する仕事です。基本的に雑用とも言えます。でも、やってみると、私にはこの仕事が面白かったのです。ダンサーとして才能があったわけでもないし、はっきり言ってそんなに努力もしていなかった私でも、この仕事によって、踊らなくても公演に参加できその中枢にいられるんだなってわかり、これはすごいと思いました。

3年生になると、私達がダンプロの活動の主力になりました。友達の木塚が部長になり、私は制作担当になりました。木塚が企画を考えて、私が企画の実行にまつわる様々な実務をやるというふうに、仕事を分担してやっていきました。サークル扱いだったのを、念願の同好会に格上げするために木塚は奔走し、私も手伝いました。学生公演だけではなく、ショーケースとか学内でやるイベントのセッティングも引き受けたりして、活動の幅も拡がっていきました。

木塚と私の2人に共通しているのは、「自分は踊らなくてもいい。」ということでした。木塚は、舞台照明に興味があり、一時は弟子入りみたいなことをしていました。そういう2人がたまたま組んだので、スタッフという立場に徹して、活動することができました。公演を仕切るのは結局制作だし、その頃には、自分がダンスを踊るということよりも、舞台を立ち上げていくことに喜びを感じていました。

なぜそんなに面白かったかというと、単に制作だけじゃなく企画もやっていたからっていうのもあります。企画を考えて実行していくっていうのがすごく楽しかった。単なる事務仕事だけじゃなく、1つの公演を作りあげ運営していくというのは、クリエイティブな仕事でもありました。公演直前になると、寝る時間も惜しんで没頭していました。

3年の終わりに、色んなことをやってきた集大成として、最後の自主公演をやりました。いつものように木塚の企画で、私が制作で。歴代の部長にも参加していただきました。あの時は、せっかくやるんだったら自分達も踊りたいねって言って、ふたりともちょこっと出演させてもらいました。そして「すごい楽しかったね!」って言って、私達はダンプロの第一線から引退しました。それから私はシュウカツを始めたんです。

シュウカツはどうでした?

シュウカツは、みんな孤独な闘いなのでしょうけど、始めた時はまさにそんな感じで、全てが手探りでした。最初はとにかく情報が欲しかった。自分で探してみて、結局そんなにいい仕事はないってわかったのですけど、舞台関係の仕事、ダンス関係の企業、インストラクターの仕事など、まとめた資料がどこかにあればいいのにって思いました。

とにかく私がやってきたことを少しでも生かそうと思って、真っ先に舞台関係の仕事を調べました。私にとっては、制作はすごく魅力的な仕事で、できるのであればそれでいきたかった。でもそういう仕事って、リクナビとかには絶対出ていないし、自分でホームページをあたって調べるとか、人づてに聞いていくとかしかありませんでした。

先生にも「せっかく舞台のことをこんなに勉強したのにやめるのはもったいない。3年がんばったら、制作で食えるようになる。30過ぎて芽が出れば、稼げるようにもなる。」って言われ、いくつか紹介もしてくださいました。ただ、実際に仕事でやっている方のお話を聞いたりすると、制作だけでやっていくのは大変そうです。いくつもの公演を掛け持ちして、やっと食べていけるくらい。最初はやはりバイトと掛け持ちでやっていくしかなさそうです。家の経済的なこともあって、私にとって自立することは必須条件でした。

他にあたっていたのは、映像の制作会社とか、広告代理店、イベント会社など、いわゆるクリエイティブな業界でした。ダンプロのチラシの折り込みでちょっと知り合いになっていた、ホリプロも受けました。先生に先輩がいるよって教えていただき、電話でお話をお聞きすることができました。

ところで、制作会社とか広告代理店って、シュウカツの段階で、企画をプレゼンテーションしてくださいみたいな試験があるんです。私は、企画書を書いて持って行きましたが、それがことごとくダメでした。「あー、アタシ、ひょっとしたらクリエイティブなことは向いてないのかも...。」って思い始めました。実はそのことは、前から薄々気づいていたんです。

どうしてですか?

ダンプロでやってきた制作の仕事には、自分でも自信があって、人にも実務の能力は認めてもらっていました。でも、企画のアイデアを考えるとか、クリエイティブなことは全部、部長の木塚がやっていたんです。そして私はその実行役に過ぎなかった。私はあらためて、自分の得意なことってなんだろうって考え直しました。

そうしたら、やっぱり実務的なこと、企画を通すために頭を使って、言葉を使って、物事を進めていく。そういうことが、私のやってきたことかなあって思って。で、社会の中でそういう仕事って何だろう...?営業...?私はそこで初めて営業という仕事が向いているのかもしれないと思いました。

でも営業と言っても、たとえば保険とか証券とか、形のないものは、私にはとても薦められないって思いました。また何かの製品をどこかの企業に納めるような営業も、ピンときませんでした。もし、営業するのだったら、一般の人に、それも自分が絶対の自信をもって薦められるものがいいと思いました。

そんなふうに自分の気持ちをふるいにかけていって、最後に残ったのは営業。そして、出会ったのが、今の会社です。決して、最初からマンションを売りたかったとか、建築に興味があったということではないんです。

今の会社は、いいなとは思いましたが、でもこの業界でこの会社しか知らないんじゃ、ここに入りたいですって言っても説得力はないと思ったので、同業の他の会社にも行ってみました。結構たくさん受けました。でも、最終的にやはりこの会社がいいなと思いました。会社の売る商品(マンション)がデザイン性の高いクリエイティブなものだったというところに惹かれた面もあります。

ニチジョで学んだことで仕事に生かせることは?

やっぱり、ダンプロでやってきたことですね。もちろん舞台や制作の知識は、今の仕事に直接の役には立ちませんが、状況判断力とか処理能力とかは頭も使って鍛えられてきたので、すごく役にたっていると思います。そういうことは、どんな仕事でも求められますからね。

ニ チジョにいる時は、自分よりすごい人が(特にダンスでは)山ほどいたから、自分が人より秀でているなんて思わなかったんですけど、今は、新しい環境のなかで物事を把握することにかけては、ちょっと自信があります。舞台の制作をものにした人は、どの企業でも通用するって言われていますし。

働き出して3か月、今の心境はどうですか?

前向きなことを言ってはいるものの、さすがにいっぱい悩んで決めたし、やっぱり仕事って大変だなあって、今すごく身に沁みて感じているところではあります。卒業してから、ニチジョの友達と会ったりすると、大学生活は好きな事やって楽しかったし、やっぱりダンスはいい、単純に舞台が恋しいなあって思う気持ちはもちろんあります。

友達にもいますが、バイトしながらダンサーとしてやり続けるっていうのも、それはそれですごい決意だと思うんですよ。尊敬もするし、それを選べたことがうらやましいなと思うこともあるんです。私も、例えば定時で上がれるような仕事をしながら、舞台の制作とかをするっていう選択肢もあったかもしれません。

ただ私は、どうせ働くなら、つまらない仕事はやりたくなかったんです。やるならガッツリやってやるって気持ちで就職しました。どっちかですよね。仕事もすごい楽しくてやりがいがあって、その上またダンスなんて無理だと思います。今はちょっと迷いが生じているのかもしれない。6月がヤマかなあって、ちょっと思っています。6月は自分を奮い立たたせないとね。

働き出して、初めて親にお金を(ちょっとだけですが)渡した時は、さすがに嬉しかったです。家でも色々なことがあったから、よけいにね。なんか「ついにここまで来たかー」って、感無量というか。やっと自立できたと思いました。舞台をやめたのはさびしいけど、私このために働けるなって、改めて思いました。

今の夢を教えてください

将来のことは、正直言ってわかりません。ただ、社会に出て働くってことは、私にとっては決して無駄にならない貴重な体験だと思っています。社会人になってみなきゃわかんないことが、絶対たくさんあると思うし。社会を知る事で、自分の経験値は確実に上がって、自分も変わるんだろうと思います。

ダンスの世界じゃなくて、他にもっとやりたいこと見つかるかもしれないし、例えばものすごい建築に興味が出ちゃって、そっちに行きたいと思うかもしれない。でも、ホントにホントに本音を言うなら、やっぱりダンスに関係することをしたい。色々言いましたが、ダンスと仕事は全然違います。

いつの日か、ビジネスというものを学んでそこで吸収したものを持って、また舞台の世界に戻っていくことができるかもしれないと思っています。3年で戻って来いよとか言ってくれたりする先生もいるし。でも、それまでは、今の会社でガッツリ働きますよ。それなりに目標も持って、イチバンになろうと決めたんで。そう私、負けず嫌いなんです(笑)。

最後にニチジョ生へのメッセージをお願いします

舞踊専攻の学生は、ダンスを選ぶか就職を選ぶか、そこから出発する子が多いので、シュウカツする上で、そこはハンディだと思います。ただ働くとなったら、覚悟を決めて是非やりがいのある仕事を見つけてください。ダンス優先にするなら、派遣という選択もありますね。ただその場合は、仕事に楽しさは期待しないでください。どっちかですよ。あとダンプロをやっていて思ったのは、もしダンサーを目指すなら、学生のうちにカンパニーを目指すとか、とにかくダンスを続けていく環境(レッスン場だけじゃなく)を早いうちから確保することをお薦めします。

対象者別メニュー
サイト内検索