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「教員を目指す日女体大生へ」 一生涯の職業としての魅力 豊かな人生を歩むために

篠崎 友誉さん

東京都立水元小合学園 統括校長


今回お招きしたのは、特別支援学校である東京都立水元小合学園の篠崎友誉統括校長です。特別支援学校でのご経験を中心に、教員を志した背景や、様々な場面での出会いから学んだこと、そして、教員を生涯の職として人生を歩む幸せについてお話しいただきました。司会進行は、山下敬緯子教授が務めました。
<2019.10収録>

【山下先生】
今日は、篠崎先生の生き様を通じて、教員を目指す学生のみなさんが大いに刺激を受けていただければと思います。篠崎先生よろしくお願いします。

教師になってよかった!

今日ここでお話できることを楽しみにしていました。私は特別支援教育に約35年間携わってきましたが、東京都の教員採用試験では、中学校の理科教員として合格しました。当然、中学校で理科を教えるものだと思っていたのですが、配属先は当時の「養護学校」、現在の「特別支援学校」でした。今でこそ特別支援教育は一般的になりつつあるものの、当時の私には何の知識もありませんでした。当初は、数年間そこで勤務した後に一般的な中学校に戻ろうとも考えました。ですが、結果的には15年間、特別支援学校で教員を続けました。その後、東京都の教育委員会をはじめとして、行政の仕事に就いた時期もありましたが、現在までの約35年間、軸としては特別支援教育に身を投じることで、豊かな人生を歩むことができたかと思っています。

あと2年ほどで定年退職を迎えますが、多くの先生方や子どもたちとの出会いこそが、私の人生だったと思えます。私は若い先生や学生に対して、「『あなたの人生は何?』と聞かれたときに、『私の人生は教員です』とい言えるような仕事をしよう」と話します。私が同じ問いを投げかけられたら答えはひとつ、「障害児教育に携わった教員だ」と胸を張って言えます。知的障害の子、病弱な子、肢体不自由の子、目が見えない子、耳が聞こえない子。私が生まれてきた意味は、こうした子どもたちに向き合う教員になることだったのだと思えます。

私は、教師になって本当によかったと思います。今日お伝えすることは、教員になっていなければ経験できなかったことです。違う人生があったのかもしれませんが、この職業に就いたからこその出会いがあり、いろんなことを勉強できました。また、小学校から中学校、高校、大学と進む中でも尊敬できる教員と出会い、時に救われ、時に勇気づけられました。その延長線上に、いまの私があるのです。今日は、私自身の人生を振り返りながら、58歳になったいま、思うことをお伝えしていきます。

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■小学校時代
小学生のときは、何か目立つことがやりたくて児童会などに立候補していました。でも、一度も当選しませんでした。悔しかったです。せめて書記でもいいからしたかったです。でも、卒業後に担任だった先生と会い、救われた気がしました。「篠崎くんは目立たなかったけど、『山椒は小粒でピリリと辛い』存在だった」と言ってくれました。先生がそのように私を見てくれていたことが素直にうれしくて、自信にもなりました。

■中学校時代
当時の中学校には「番長」がいて、校内暴力などで荒れていました。生徒同士でケンカが始まっても特に驚きはありませんでしたが、ある数学の先生の言葉に衝撃を受けました。授業で指され、何げなく「先生ちょっと待ってください」と言った途端、先生からの雷が落ちました。「生徒が先生に対して『ちょっと待ってくれ』というのは、生きるか死ぬかのときだけだ」と言うんです。その先生は戦争を経験した方で、極限の厳しさを知っていました。私は、そんな異次元の経験をベースに指導してくれる先生を越えていきたいと思いました。それ以来、数学をがむしゃらに勉強するようになりました。

■高校時代
高校3年生のとき、ある化学の先生に「医者になりたい」と伝えました。すると先生は、私の成績がよくないことを知っていたからか、「医者よりもいい職業がある」と言いました。それでも私は日本大学の農獣医学部(現在の生物資源学部農獣医学科)に現役で合格しました。卒業式では先生が「4年生大学に現役で入れるのは、勉強したやつだけだ」と言ってくれたのですが、「医者よりもいい職業」が何かを理解できたのは、ずっと後になってからでした。

■大学時代
大学生になると、単位はしっかりと取った上で、なんとミュージカル俳優を目指して劇団に入りました。ちょうどその頃、若者が金属バットで両親を殺害する家庭内暴力の事件がありました。「そんなことはあってはならない」と強い憤りを覚えました。では、それをどうやって世の中に伝えるのか。歌で表現して伝えたいと思ったからです。
ただ、将来の選択肢としては教員も考えており、履歴書を書いていたのですが、履歴書の「尊敬する人物」という欄に、私がミュージシャンの名前を書いたため、研究室の指導教員からは「教育実習に行くのなら、きちんと履歴書を書きなさい」と注意されました。先生は、私が教育実習先でふざけた学生だと思われることを心配してくれたのでした。さらにその先生は、職場である大学から約3時間もかけて、教育実習先まで私の授業を見にきてくれました。そして「よく頑張ったな」とも言ってくれました。

この瞬間、私の考えは変わりました。とんでもない学生なのに、先生が熱心に私を支えてくれることが、心の底から嬉しかったです。その後、私は教員を志望する学生が多い東京学芸大学の大学院に進みました。薬物医療などを行う医療少年院や、精神薄弱の若者を収容する少年院での教育に関する研究を進めながら、教育者としての基本を身につけていきました。

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右も左もわからない特別支援学校へ

東京都の教員採用試験に合格し、最初に配属されたのは、養護学校の訪問学級でした。重度の自閉症の子どもや、自傷行為で何度も自分の顔を叩いて顔が腫れあがった子ども、1日中外で水をまく「常同行動」が出ている子どももいました。私はただただ驚きましたが、校長先生はこう言いました。「この子たちにとっては、水も教科書であって、常同行動で感覚が刺激されることもひとつの教科書。その教科書を理解しなければ、教育は成り立ちません」と。でも、当時の私には、その意味がわかりませんでした。

その後、養護学校の開設に携わった際には、他の先生方から「『みんなが輝くように』とか『笑顔があふれるように』とか、篠崎先生のいうことはカッコよすぎる」と指摘されました。「では、どうすれば笑顔があふれるようにできるのか」と追及もされました。「楽しく学校に来れるようにしましょう」と口にした際も、「楽しいとはどういうことですか」と問いただされました。もうタジタジでした。どうしたらいいか、何と答えていいかわかりませんでした。それでも、経験を重ねていくにしたがって、一人ひとりの子どもの実態をしっかり見ようと思えるようになりました。

■全盲で水頭症のA君
養護学校で高校1年生から3年間を共に過ごした男子生徒がいました。彼は高校3年になると、3階の教室から1階の食堂まで手すりをたどり、足元を確認しながら、ひとりで移動できるようになりました。また、マラソン大会に出場するために練習を重ね、私の肩に手を添えながら5kmを完走し、ゴールを切りました。先生たちはみんな泣きました。養護学校の子どもたちは、教育の成果が見えづらい部分もありますが、彼は見事に目に見えるかたちで目標を達成してみせました。

■自閉症のB君
ある自閉症の男子生徒は、卒業まであと2カ月という高校3年次の1月に、父親の転勤で九州に引っ越してしまいました。そして先日、約25年ぶりに再会しました。ただ、彼は九州に引っ越して以来、毎年欠かさず年賀状と暑中見舞いを書いてくれています。私の教え子の中には、こういう生徒が何名もいます。これ経験して思うことは、障がいがあるとかないとかということではないのだということです。人なのです、想いなのです。

■肢体不自由のCさん
人工呼吸器をつけたままバギーに乗って生活し、訪問学級で学ぶある女の子。彼女の夢は、医者です。学習能力は高く、絵画展で入賞したこともあります。入賞作品の題名は「赤いバギーに乗った私」。彼女は、自分とバギーが一心同体だと思っています。からだを少し横にするだけで骨折してしまう彼女は、からだを支えるバギーがなければ生きていけません。そんな境遇でも一生懸命に勉強して、将来は医者になりたいと思う。この夢を特別支援学校の教員は叶えたいと本気で思っているのです。

■肢体不自由の女子大学生
肢体不自由で寝たきりですが、現在は大学に通う女の子もいます。彼女にどのような方法で教育をしていくべきかを考えていた小学校3年生のとき、担任の先生が彼女の手に触れると、かすかに反応しました。それは、彼女からのサインでした。それがきっかけとなり、多くの先生とコミュニケーションがとれるようになったのです。大学では、ボランティア学生の配置や、ベッドの使用といった合理的配慮はなされていますが、レポートの提出日や単位取得の条件は一般の学生と全く同じです。健常者の同級生は、彼女について「いつもポジティブ」と話しています。

子どもは教員を選べない

みなさんは先生になりたいのだと思いますし、私も理科の先生になりたいと思っていました。私は思いがけず養護学校に赴任しましたが、そこで一生懸命に障害児教育に取り組む先生方に出会いました。そして、自分が「普通の学校」に戻りたいとか、その場から逃げたいと考えることが、教員として本当にいいことなのかと自問自答したこともあります。

いま紹介したような子どもたちは、教師を選ぶことはできません。一方で私は、人事異動の希望を出して、違う学校に移ることもできたかもしれません。でも、「いや待てよ」と思いとどまりました。なんでこんなにも一生懸命な先生方がいるのか。理科の教員に戻るのであれば、せめて先生方が一生懸命に取り組んでいることの本質を知りたいと思いました。その答えは、「障がいのある子どもたちを教育の力で変えていく」ということでした。では自分はどうか。教員になりたての頃の私は、知識も技術もなく、勉強もしなかったため、生徒を変えることができませんでした。そんな私が教員として教壇に立っていたのです。自分自身を許せなくなりました。子どもたちに申し訳なかったし、いろんなことを教えてくれた先生方にも申し訳なかった。だからこそ、それからは本気になって障害児教育に取り組んできたのです。とはいえ、それでも壁にぶつかることはありました。

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教育とは命。子どもには夢がある。希望がある

肢体不自由特別支援学校で校長に就任したときの話です。校長は入学式で式辞を読みます。「入学おめでとう。みなさんの夢はなんですか。たくさん友だちをつくりましょう。思い出いっぱいつくりましょう」と、当たり前のように話すつもりでした。ところが、重度の障がいを持つ子どもたちを前にして、何ひとつ言葉が出てこなくなりました。ひとまずその場はしのぎましたが、ある来賓の方が私にこの言葉を突きつけました、「先生、教育とは何ですか。子どもたちがどれだけつらい治療をしているかわかりますか。教育とは、命なのです」。

その方は続けました。「病棟ではなく教室に行きたい。友だちに会いたいから。わからなかった勉強がわかるようになりたいから。やさしい先生に会えるから。ここは学校ですよ。あの子どもたちには夢がある。希望がある。学校行事に参加したいという思いを持たせてあげてください」と。私は、そこまで考えが至りませんでした。あまりにも重度の子どもたちを前にして、「かわいそう」としか思えなかったからです。

ここに、とある障がいを持つ児童のお母さんが綴った手記があります。抜粋して紹介します。
「周りの子どもはずいぶんお話ができるようになったな。私の子どもはまだ遅いのかな。そして近頃、我が子の名前を呼んでも、どうも振り向かない。少し変な感じがする。そして、「とりあえず」耳鼻科に行くことにした」
まずお母さんは、自分の子どもは何かおかしいと気づきます。一番身近な存在だからです。でも「とりあえず」という言葉になってしまいます。
「耳鼻科に行くと、耳の検査をし、聴力測定も行った。検査結果を医師が私に伝えました。『あなたのお子さんは、耳が聞こえません。今の医学では、耳が聞こえるようにはなりません。あとは教育にかけてみてはいかがですか』」。
とりあえず、とにかく安心したくて耳鼻科に行ったのに、耳鼻科の先生は「お子さんは耳が聞こえません」と告知するわけです。
「医者から結果を聞いたとき、我が子は耳が聞こえない、そんなはずはないと信じました。一方で、涙が出て止まりませんでした。我が子をしっかり抱きしめ、自分の子どもであることを確認するかのように、きつく抱きしめました。子どもは、いつもと変わらぬ寝顔をしていました。すぐに夫の顔が見たくてタクシーに乗り、自宅に帰りました。夫が帰ってくるまで家で何をしていたか、覚えていません。夫の顔を見た途端、言葉より涙が出て止まりませんでした。そして月日が流れ、もう一度「教育にかけてみたら」という医師の言葉を思い出しました。ろう学校の門をくぐったのは、その後のことです。教室はとても明るく、担任の先生はとても笑顔で、すべてを包み込んでくれるほどのやさしさを感じました。私はこの先生を信じてがんばろうと思いました」

こういう子どもたちが学校に来るのです。その子たちへの教育を、教員が行い、その子たちを救っていくのです。

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「恩返し」の思いが原動力。私も、教え子たちも

先日、私は母校である日本大学の農獣医学部で講演会をさせていただきました。これから大学が障がいのある学生を受け入れるために知っておくべき、障害者差別解消法や合理的配慮などについて話をしました。ただ、この講演が決まった矢先に、訃報が届きました。大学時代、私を教師の道へ導いてくれた先生。私を心配して、教育実習先まで見に来てくれた先生が亡くなりました。日大の農獣医学部で先生と出会っていなければ、教員という道を歩むことはできませんでした。講演で先生に恩返しができると思いましたし、あらためて先生にありがとうと伝えたかったです。でも、叶いませんでした。

最後に、私が勤める「東京都立水元小合学園」の紹介をさせてください。軽度の知的障害の高校生が東京都の全域から集まってきて、卒業と同時に社会人になる企業就労100%の学校です。特別支援学校ですが入学者選抜があり、例年1.25倍前後の倍率です。入学試験では面接もあり、中学3年の受験生に「あなたは将来どうしたいですか」と質問します。すると、「会社に入って両親に恩返ししたい」と答えます。私なんて、中学3年生のときにそんなことは考えもしませんでした。でも、うちの生徒はそう決意表明して入学し、勉強に励みます。

私にとっても現在の原動力のひとつは、恩返しをしたいという思いです。今日のキャリアカフェに呼んでくださった山下教授も、実はかつての職場でお世話になった先輩です。また、みなさんの先輩の一人は、いま私の学校で担任をしています。必死で頑張ってくれています。その頑張っている彼女を育ててくれたのは、紛れもなく日本女子体育大学です。

「東京都立水元小合学園」で検索してもらえば、学校紹介の動画も見ていただけます。実際の生徒が部活動や職業教育に取り組む場面をまとめてあります。知的障害の生徒がフォークリフトの運転免許を取得したり、パソコンの技術を習得したりして、企業就労につなげます。フォークリフト以外に、ハンドリフトの操作も練習し、物流業界のバックヤード業務に生かせる実践力を培います。ビルクリーニングの訓練もします。在学中に公益社団法人日本ビルメンテナンス協会が定める資格を取得するので、入社後は即戦力となります。

学校を見に来てもらっても構いません。今日来てくれたみなさんが何かに挑戦したい、こんなことがしたいというものがあれば、いつでもお手伝いしたいと思っています。本日はどうもありがとうございました。

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【山下先生】
いま篠崎先生が話されたように、特別支援学校の教員を目指していた学生が2018年3月に卒業して、篠崎先生の学校に採用されました。私は彼女が着任後に学校を訪問して、ホームルームにも顔を出してきました。施設も素晴らしかったですし、篠崎先生がどれほどの思いをもってお勤めされているのか、その一端を垣間見ることもできました。

経験に勝るものはないけれども、経験を経験だけで終わらせるのではなく、それをステップにして自分がどういう指導者になっていったらいいのか。これを追究し続ける大切さを、今日の篠崎先生の話から感じてもらえたのではないかと思います。篠崎先生、今日はどうもありがとうございました。

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