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障害者スポーツを仕事にする

堀江 航さん

パラリンピアン/一般社団法人センターポール 理事/ブラジリアン柔術道場「CARPEDIEM世田谷」代表


令和7年12月15日のキャリアカフェにお招きしたのは、パラアスリートの堀江航さんです。学生時代の交通事故を機に車椅子バスケットボールを始め、プロ選手として海外リーグで活躍。パラアイスホッケーの日本代表選手としてパラリンピックにも出場を果たされました。競技者としてだけでなく障害者スポーツの普及や、ブラジリアン柔術道場の運営といった多彩な活動も触れていただきました。司会進行は、スポーツ科学科の大塚雅一教授が務めました。
<2025.12収録>

左脚がなくてもスポーツがしたい。パラスポーツへの情熱からアメリカへ留学

今日は障害を持つ当事者であり、かつ障害者スポーツのプレイヤーでもある私から、「障害者スポーツを仕事にする」というテーマでお話をさせていただきます。私は小学校から中学校、高校、大学までサッカーを続け、高校では全国大会にも出場しました。大学のサッカー部では、現在ニチジョで准教授をされている大槻茂久先生とも一緒に練習に励みました。ただ、私は大学3年のとき、部活の帰りにバイクで転倒してしまい、左脚を切断することになりました。半年間ほど入院して大変でしたが、家族の支えもあって前向きになることができ、自分が思い描いていたものとは違ったものの、なんとか義足で教育実習の教壇に立って教員免許も取得しました。

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教員免許は卒業以来使っていませんが、私はずっと障害者スポーツに取り組んできました。今でこそパラリンピックやパラスポーツの認知度が高くなりましたが、私が大学生の頃は、体育大生ならかろうじてパラリンピックを知っているという時代だったと思います。そんな中、ゼミで障害者スポーツを勉強していた友人に誘われて始めたのが、車椅子バスケットボールです。

サッカーはできなくてもスポーツがしたいと思っていた私は、車椅子バスケにハマりました。卒業後に就職してからも競技を続け、2005年には車椅子バスケの本場であるアメリカのイリノイ州立大学に、武者修行として留学しました。この大学には世界中から選手が集まり、部活動で車椅子バスケがありました。専属のコーチもいて、ジムやきれいな体育館もある恵まれた環境でした。そこで5年間過ごし、全米大学選手権で優勝することもできましたし、無事に大学院も修了できました。

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車椅子バスケからパラアイスホッケーに転向

私はその後スペインに渡り、車椅子バスケのプロリーグに挑戦しました。ヨーロッパには外国人選手も多くいた中で、おそらく私が初めての日本人選手だったと思います。ただ、プロといっても派手な世界ではなく、現地で生活できる程度のお給料をもらいながら遠征を繰り返す生活でした。そして、次のシーズンはドイツのチームに移籍。外国人選手としてカナダ人やアメリカ人、フィンランド人、そして日本人の私がいて、ドイツ人はドイツ代表レベルの選手が所属するチームでした。ホームゲームだと1,000人から1,500人ほどのお客さんがお金を払って観戦してくれて、当時の車椅子バスケ界では最高峰の環境のもと、ドイツリーグとドイツカップで優勝し、ヨーロッパ選手権でも優勝しました。

スペインとドイツで1シーズンずつ過ごした後は日本に戻り、新たな種目に誘われて挑戦しました。それが、車椅子バスケと比べると知名度の低いマイナースポーツであるパラアイスホッケー(アイススレッジホッケー)です。2013年には日本代表になり、2014年のソチパラリンピックを目指しましたが、最終予選で敗退となってしまいました。ただ、そこから奮起し、2018年の平昌大会では念願のパラリンピック出場を果たしました。出場8チーム中8位という結果で悔しさも残りましたが、友人や家族も応援に来てくれました。

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この間、2013年には一般社団法人日本車椅子ソフトボール協会を設立しました。アメリカでは、オフシーズンはトレーニングを行う一方で、別のスポーツをする文化があります。私自身も留学中に車椅子ソフトボールを経験したことから、日本でも普及させたいと考えたのです。また、2014年には柔道の寝技やレスリングに似たブラジリアン柔術も始めました。大会にも出場してきたほか、2021年には黒帯を取り、現在は世田谷区内で道場を運営しています。さらに2019年には、カヌーにも挑戦し、国内大会では上位に食い込めました。ただ、東京パラリンピック出場は叶いませんでした。

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こうしてさまざまな活動をしていたのですが、2022年の北京パラリンピック後に、一度離れていたパラアイスホッケーに再び挑戦しました。しかも、以前は点を取る役割のフィールドプレーヤーでしたが、ゴールキーパーへの挑戦です。アイスホッケーは実際のリンクで練習できる時間が限られているため、リンク以外での"オフアイス"のトレーニングを重視。その成果もあってか、2025年11月にノルウェーで行われた最終予選を突破し、2026年のミラノ・コルティナ・パラリンピックの出場権を獲得しました。

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障害をもつ子どもたちがスポーツできる場所づくり

私はパラアスリートとしての競技活動以外でも、多くの活動をしてきました。例えば、2015年には友人と一般社団法人センターポールを設立しました。目的は、障害者スポーツの普及や、競技の垣根を越えたパラアスリートの横のつながりづくりです。主な事業としては、「パラスポーツ×学校教育」を掲げた講演活動を進めています。主に小中学校で、車椅子バスケやボッチャ、ゴールボールなどを体験してもらい、障害者スポーツを知ってもらう活動です。最近は企業の研修プログラムとして呼んでいただく機会も増えています。また、障害者スポーツイベントの企画・運営や、競技用車椅子のレンタル事業、スクール事業も展開しています。私自身もそうでしたが、障害者スポーツがしたいと思っても、なかなか場所がありません。特に障害を持つ子どもたちがスポーツをする場所が少ないため、週に1回、子どもたちを集めて指導を行っています。


スクールを始めた当初に参加していた子どもは、今や高校生や大学生になり、車椅子バスケU20代表選手になった子もいます。そして、この活動が認められ、アスリートによる社会貢献活動を表彰することを目的として日本財団が運営する「HEROs AWARD」を2020年に受賞しました。

ほかにも、2016年には車椅子バスケを題材にして、俳優の櫻井翔さんが主演を務めた『君に捧げるエンブレム』というドラマでの実技指導・競技監修や、東京マラソンに世界中から集まった車椅子ランナーのアテンドも担当しました。また、2021年の東京パラリンピックでは、ルワンダ共和国の"お手伝い"もしました。ルワンダは選手10数人とスタッフ4・5人の小さな選手団で人手が足りないということで、お助け役の"アタッシェ"という役割を任されたのです。アタッシェのIDカードがあれば、会場内で自由に動けたため、パラリンピックを満喫しました。車椅子バスケの決勝も見ましたし、開会式や閉会式も観客席から見ていました。さらには、ファッションモデルとしてランウェイも経験しましたし、現在は障害者スポーツを教える大学教員もしています。

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【事前に学生から寄せられた質問への回答】

大学時代の思い出は?
私は体育の教員になりたくて日体大に進学し、サッカー部にも入りましたが、当時の日体大サッカー部は、関東1部リーグで上位8チームに入るようなチームでした。Aチームには上手い選手がいて、プロになるケースもありましたが、私はCチームでした。「Aチームに入ってプロになるぞ」くらいの意識で練習できればよかったのかもしれませんが、高い志があったわけではありませんでした。
大学2年次が終わると休学をして、ワーキングホリデーで1年間海外で過ごしました。このままなんとなくサッカーをしながら卒業するのではなく、「ちょっと何かしたい」と思ったのです。オーストラリアで働きながら滞在したのち、東南アジアをめぐり、1年後に帰国しました。
その1年間で、またサッカーがしたいという気持ちを取り戻し、復学後、コーチにお願いをしてサッカー部に復帰。そこからはしっかりトレーニングをするようになり、4年次も頑張ろうと思っていたときに事故に遭いました。皆さんもそれぞれやりたいことがあると思いますので、どうか悔いのないようにしてほしいと思います。

高校時代の思い出は?
「全国に行きたい」という一心でサッカーをしていました。強い選手を集めてくる学校ではなかったですが、とてもチームワークがよく、私たちの代は新人戦で優勝して関東大会とインターハイに進み、冬の全国選手権にも出られました。当時の強豪校は「走ってナンボ」で練習がきつい学校が多かった中、都立駒場高校は自主性を重んじる雰囲気の中、とても楽しくサッカーができました。全国大会出場はとにかく嬉しかったですし、学校史上初ということで、周りも盛り上がって応援してくれました。ただ、全国大会に出ることが目標だったせいか、結果は1回戦敗退。「日本一になる!」といった思いを持つチームなら、もっと上に行けた可能性もあったかもしれませんので、ぜひみなさんは目標を大きく持ってほしいと思います。

障害者スポーツで一番苦労を感じる点
マイナースポーツで競技人口が少なく、練習場所や試合会場などの環境も整っておらず、活動資金も少ないことです。最近ではパラリンピックの認知度・注目度が上がり、大きな大会に出場できれば国から補助金が出ることもありますが、そこに至るまでは、道具を揃えたり、遠征したり、練習場所を確保したりするのも自己負担なので大変です。これは障害者スポーツに限らず、多くのマイナースポーツが直面する問題だと思います。また、選手層も厚いとはいえず、アイスホッケーには若い選手が少なくて新陳代謝が不十分です。若い伸び盛りの選手もいますが、46歳の私もキーパーで試合に出ているほどです。ただ、肉体的には衰えてきていますし、あまりおじさんが頑張っても次の世代が育ちません。最近はそんなことも気にしながらプレーしています。

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どんなところに仕事のやりがいを感じる?
「しないといけないこと」と「やりたいこと」の両立が大変ですが、自分の得意なことを活かして興味のある仕事ができたら幸せだと思います。私は大学を卒業してから2年間、アディダスジャパン株式会社に勤めました。間接的にでもスポーツに携われてよかったですし、世界的なサッカー大会があるとスポンサーとして大会を支えたり、選手をサポートしたりと、好きなスポーツに関わっていることを実感できました。ただ、当時は車椅子バスケもしていて充実はしていましたが、いかに仕事を早く終わせて練習時間を確保するかに必死で、本当に大変でした。仕事が残っていれば、19時から21時まで練習をして、再び会社に戻ることもありました。土日も練習に行き、その前後に会社に行くこともありましたので、とてもきつい2年間でした。

車椅子バスケに使う車椅子の特徴
選手ごとに特徴が異なります。障害の程度や、体の大きさ、手足の長さなどが選手によって違いますので、競技用の車椅子はすべてオーダーメードです。値段もそれなりにして、私が最初に買った車椅子は35万円から40万円くらいでした。ただ、体にフィットしてセッティングが自分に合えば、大きくプレーが変わります。私も一気にスピードが上がり、プレーの幅が広がったことがありました。なお、トップ選手になると、メーカーから無償で提供されます。毎年車椅子を変えられて、毎年いい具合にセッティングされます。最初は自費で頑張る必要がありますが、これは道具を使うスポーツに共通する特徴だと思います。

食事管理と試合前のルーティンは?
食事管理はしていませんが、暴飲暴食するタイプではなく、甘いものやジャンクフードが好きなわけでもありませんので、あまり気にしていません。お酒も得意ではなくて、ほぼ飲みません。野菜が好きではないので食べるように言われますが、気にしているのは体重と"見た目"くらいです。鏡を見て違和感があれば少し摂生を意識します。もし専門家が栄養面の管理・指導をしてくれれば、そのとおりにできると思いますが、食事を気にしすぎることによって生じるストレスがよくないと思うのです。アスリートとしては褒められたものではないかもしれませんが、私はそう考えています。
また、いろいろと試した結果、今のルーティンはありません。以前は、最初に踏み出す脚や、ウェアを着る順番などのルーティンがありましたが、それらをし忘れてしまった際にストレスを感じたため、現在ルーティンはつくらずに、1人になれる場所で一瞬で集中力を高め、"スイッチ"を入れるだけにしています。

障害を負う前後での考え方の変化は?
表現が難しいですが、脚がなくなり、障害者と呼ばれるようになってよかったとさえ思っています。何かに挑戦することに対して抵抗がなくなったからです。決して投げやりになったわけではなく、「なんとかなるだろう」と思えるようになったのです。左脚の切断はネガティブな出来事として捉えられがちですが、脚を失ったからこそポジティブにいろいろなことを試し、挑戦できるようになりました。一方、順調で理想的な成長のレールに乗って人生が進んでいくと、そこから別の道に踏み出す際にはかなりの勇気が必要になると思います。皆さんはそれぞれ専門としている競技があり、高いレベルで戦えているのだと思いますが、だからこそ違うフィールドには行きづらいと思います。その点、私は「どっちに進んでもどうにでもなる」と思えるようになれました。昔からチャレンジ精神が旺盛な性格だったとは思いますが、左脚がなくなったことで、よりいろいろなことにチャレンジできるようになったと思います。

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〈大塚先生より質問〉
他大学で講師をされていますが、どんな科目を担当しているのですか。

〈堀江さん〉
障害者スポーツの演習と講義です。メインは車椅子バスケットボールやボッチャ、ゴールボールなどの実技です。学生に伝えているのは、"障害者のためのスポーツ"ではなく、"障害者もできるスポーツ"だということ。障害があってもなくても、多くの人が楽しめるスポーツだと捉える大切さを伝えています。

〈大塚先生〉
アメリカ、スペイン、ドイツでは、どう外国語に対応したのですか。

〈堀江さん〉
あまり英語を勉強してこなかったので、渡米直後は大変でした。車椅子バスケではプレーでアピールできますが、普段は現地の大学院に通う学生です。日本では考えられなかったですが、教室の最前列に座って録音しながら授業を受け、自宅で復習しました。アメリカには、一定の成績を取らないと選手として活動できないNCAA(ナショナル・カレッジ・アスリート・アソシエーション)のルールがありましたので、学業も頑張りました。幸い、何かを覚える授業よりもディスカッション形式の授業が多く、卒業することができました。また、スペインでは2か月くらいスペイン語の学校に通い、少し話せるようになりました。スペイン語は聞きやすくて話しやすいので、今でも使いたいと思うほどです。ただ、ドイツ語は全く話せません。選手は国際色豊かで、ドイツ人は英語も話せますので、チーム内では英語でした。最近は翻訳ツールなどもありますが、自分の言葉で喋れると活動の幅が広がるので、ぜひチャレンジしてほしいです。

〈大塚先生〉
将来展望をお聞かせください。

〈堀江さん〉
いつまでもスポーツに関わり続け、頑張っている若い選手を応援して彼らが活躍していける道をつくりたいですし、もっと小さい子どもたちが活躍できる場もつくりたいと思っています。また、パラリンピックでは男子のパラアイスホッケーしか正式種目になっておらず、女子は選手も少ないので、女子のチームづくりなども盛り上げたいと思っています。

最後になりますが、私は幸いにもスポーツという好きなことをしながら生きてこられました。ぜひ皆さんも1人のスポーツ人として、楽しくスポーツに関わりながら、心身ともに健康に過ごしてもらいたいと思います。日本のスポーツ界は、依然として辛く厳しいといった側面もあり、スポーツに打ち込んできた人ほど、部活動を引退すると運動をしなくなることも多いと聞きますが、これまでと違うスポーツでもいいですし、どんなレベルでもいいので、スポーツを続けてほしいと思います。

〈大塚先生〉
堀江さん、どうもありがとうございました。パラリンピックでは、まずは1勝に向けて、皆さんもテレビの前で応援しましょう。今日はいろいろなお話をありがとうございました。

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