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東日本大震災 日本製紙工場『復興の記録』

中田 和宏さん

日本製紙(株)岩国工場 勤務


本日のお客さまは、日本製紙株式会社岩国工場にお勤めの中田和宏さんです。中田さんは、1990年に製紙会社に入社して、主に人事部門で働いてきました。宮城県の石巻工場に勤務していた時に東日本大震災が起こり、工場は壊滅的な打撃を受けました。今日は、その工場がどうやって立ち直っていったかをお話していただきます。
<2016.01収録>

みなさん、こんにちは。私は最初、大昭和製紙という会社に入りましたが、2001年に日本製紙に統合されて、どちらの会社でも主に人事や総務の仕事をずっとやってきました。これから皆さんも就職活動をすると思いますが、人事ってわかりますか?社員のお給料を払ったり、採用の面接をやったり、人の教育や評価をしたり、人を動かしたり、色んなことをやりますが、簡単に言うと「人と組織にまつわる仕事」です。

日本製紙は北海道から九州まで全国に工場があって、私は大昭和製紙時代から何度も転勤をしていました。2008年に石巻工場に転勤になりました。石巻工場は、日本製紙の中では主力の工場と言っていいと思います。

皆さん体育大学ですので少し運動部のこともお話ししますと、石巻工場には野球部があって、赴任と同時に私は野球部の副部長も任されました。当時の野球部はとても弱くて、部員も19人しかいませんでした。社会人野球の目標は都市対抗野球大会に出ることですが、弱小チームがなかなか出られるものではありません。

自分はもちろんプレーはしませんが、副部長として予算を捻出したり、工場の応援団や市の後援会を作ったり、色んなことをやりました。選手も勤務の合間に一所懸命練習をしました。みんなで取り組んでいったら県大会と東北地区代表決定戦で優勝して、都市対抗野球大会に出ることができたんです。これはその時のビールかけの写真です。ビールかけ、やったことありますか?こんなに嬉しいことはありませんでした。

【学生】(笑)

その時は、みんなもう天にも昇る気持ちでした。ビールだらけでびしょびしょのまま飲みに行ったりして、ビール臭いのさえも自慢でした。それから2回、都市対抗野球に出場することができました。あの時、東京の大きな大会があって、私もついていって、試合が終わってバスで帰る途中に、東日本大震災が起こりました。

そして津波が来た。

2011年の3月11日14時46分です。もうすぐ5年になりますね。その時、皆さんはいくつでしたか?

【学生】中2...?

津波の高さは、石巻港で5.8メートルから7メートルと聞いています。工場の敷地はだいたい一辺が1キロメートル、海抜3メートルちょっとですから、工場全体が海になりました。工場から2キロぐらい東に行ったところに、石巻ガスという会社があります。そこで撮った動画がありますので、ちょっとそれを見ていただいて、同じものが工場にも来たと想像してください。

(映像再生)

道路は大渋滞しています。みんな津波から逃げようとしていて、クルマのテールランプが赤く光っていて、実際に中に人がいらっしゃるわけです。15時40分頃、そこに大津波が襲ってきました。津波に直撃された家が、すごい勢いで一緒に流されていきます。

石巻ガスのビルは2階建てです。この時は屋上にみんな逃げて、この映像はそこから写しています。向こう側が海で、今、津波が来たところです。ものすごい勢いで、街路樹も車も全部、どんどん流されています。第1波がこういう形でやって来ました。雪が降っていますね。

【学生】すごい...。

ほんの数分のことで、なすすべもありません。次の映像はさっきより高いところに登って映していますね。屋上が2段になっていてほんのちょっとでも高いところに逃げなければと思われたのでしょう。

(映像終わり)

津波は何度も押したり引いたりして、やっと収まりました。

この地震が来た時、石巻製紙工場では1306名の従業員が働いていました。工場では地震の時どういう行動をするか、社内ルールで決まっています。工場の正門前の道路を渡って石垣の階段を登ると、日和(ひより)山と言うちょっとした高台に出られます。そこには会社の従業員が住むアパートや野球部の練習場もあって、地震の際はそこに避難することになっていました。

地震がいったん治まり、そして津波警報が出ました。避難を始めた時は、自転車を乗ってきた人が「津波が来るらしいから自転車をちょっと路肩にあげとこうか。」それぐらいの軽い気持ちで、まさかあんな大津波が来るとは誰も思っていません。津波が襲来する前に避難を完了することができました。

当時、私は総務課の課長をやっていて、本来は避難誘導などで指揮を取るべき立場でしたが、東京にいたためそれはかなわず、「総務課の何人かが避難誘導で最後まで残って、取り残されたかもしれない。」と聞いて、いたたまれなくなりました。そのまま一睡もできず、翌日のバスで石巻に戻りました。外から石巻に入ることがなかなかできなくて、翌々日の13日になって、ようやく工場にたどり着きました。

震災直後の様子。その時思ったこと。

工場の東隣の地区は閑静な住宅地でしたが、津波とその後に起こった火事で、家は跡形もなくなっていました。何もなくなってしまったその場に立つと、むなしく空がひろがっていました。工場の正門には大きな看板があったのですが、何もかも津波で流されていました。正門前の道には、瓦礫、土砂やクルマ、材木など様々なものが何重にも積み重なっていました。

工場の中は、机やら書類やらなにもかもがグチャグチャになり、手がつけられませんでした。パルプ用の丸太がそこら中に転がっていて、貨車やコンテナがあちこちに突き刺さっていました。構内には、倒壊した家が何軒も流れ着いていました。津波の高さを後で調べたら、工場前の道路からのレベルで4、5メートルくらい、工場の中は3メートルぐらいでした。

みんなから、「よく来たね。」「どうやって来たの?」「もう大変なんだよ。」「早く指揮をしてください。」色んなことを言われました。私は、何をどうしていったらいいのか全くわからず途方にくれました。

とにかく目に入ってくる風景が地獄絵図のようなものですから、「これからいったいどうしていこう。」と思いました。総務課長としてのプレッシャーもありました。結局どうしたかというと、大げさに言えば、「この先、この状況から絶対に逃げない。」と心に決めました。

幸いにも当日勤務していた方は、全員が無事に避難していました。一時は取り残されていた総務課の部下も無事だとわかり、ほっとしました。ただ当日勤務していなかった方や、従業員OBの方の行方は分かりませんでした。

地域の人には、何かあったら会社の施設を開放する取り決めをしていました。従業員が避難していた日和山にも、被災者の方がやって来ました。地震直後に400人から600人、一時はあわせて1000人を超していました。。空き社宅として使っていないアパートがあったので、19日にそこを開放して被災者の方に入っていただきました。一部屋に5~6人ずつ、100世帯以上に入っていただき、みなさん最初は毛布だけでしたが、そんなかたちでも「ありがたい。」と言っていただきました。

食料が十分になかったので、お団子ぐらいのおにぎりを作って、一人1日1個で当座をしのぎました。そのうちに支援物資が届き始めて、石巻工場にも大型トラックで届けられました。工場に置き場所がないので70km離れた岩沼工場に仮置きしました。この支援物資がなかったら生き残れなかったんじゃないかと思います。本当にありがたかったですね。

復興への道のりの一歩。

初期の混乱期をなんとか切り抜けて、少しずつ震災被害への対応を始めました。対策本部を作って、工場のメンバーが各班に分かれてリーダーを選出して、一丸となって復興作業に当たっていきました。作業に当たっている方もみんな被災者です。自分の家が流されてしまっているなか、一生懸命復旧作業をしてくれました。

電気がまだ復旧していないうちは、夕方になって日が暮れると作業は終わりです。そこからロウソクの明かりの下で、各リーダーに「今日はどんなことがありました?」「明日はどんなものが必要ですか?」「こんなことをやって欲しいんです。」そんな風に連絡を取り合いました。そして翌朝には、とにかく大きな声で指示を出して...。そんなことを繰り返していました。

ライフラインの復旧については、21日には、仮設トイレができました。それまでは大きな穴を掘って処理していました。電気が来たのは31日です。それまではお風呂にも入れませんでした。。お風呂なしの生活にも慣れてしまって、ペットボトルでちょっとずつお湯をかける技も覚えました。ガスは翌月17日に復旧されました。

みんな復興作業や跡片付けで泥だらけになって帰ってきますから、まかないの体制をどういう風に取るか考えましたし、他にも、避難した従業員へ支援物資をどうやって送るかなど、やることがどんどん広がっていきました。先の見えないなか、火事場の馬鹿力を毎日毎日出し続けるような、一日が一週間の長さのように感じられました。

最初は工場の中の瓦礫や泥をショベルで掻き出したり、みんな手作業でやっていたんですが、全国の他の工場から60名以上の人が、ダンプや重機と一緒に応援に駆けつけてくれました。それからは大きな瓦礫は重機で片付けていき、18軒流れてきた家も、持ち主を探してお断りしてから解体しました。

復興作業を進めていくうちに、津波で亡くなった方も瓦礫の下から発見されました。その場合のルールを決め、警察にすぐ来ていただけるようにして、手を合わせ黙祷してからご遺体を引きとっていただきました。構内からはご遺体は41体発見されました。後に工場で慰霊祭を行いました。

市内で発見されたご遺体は、小学生がミニサッカーをやるグラウンドにまでも重機で穴を掘って、土葬されていました。頭ではわかっても、ちょっと受け入れられない風景でした。従業員の方を探しに安置場に行くと、体育館の中にもう何百と棺桶が並んでいた光景も強烈で忘れることができません。

再稼働までの道のり。

工場の瓦礫はなくなり、構内はきれいになりました。これは私が撮った写真です。左が復旧前、右が復旧後、同じポイントで撮っています。正門前は何もなくなっていますね。

きれいになっただけで、まだ工場は稼働していません。構内の機械は大部分が塩水に浸かってしまったので、6000台ある巨大なモーターも動きません。モーターをメーカーに持っていったら、高圧洗浄すればどこまで持つかは別としてまた使えることがわかりました。そこで2000台ほど持って行って洗いました。

春になっても、煙突から煙が出ていない工場は、地域の方からすると死んだように見えるわけです。それで16メートルの巨大な鯉のぼりを手に入れて、それをみんなでペイントして工場の煙突に掲げました。8月10日に、重油ボイラー(蒸気で電気を起こす元となる機械)を稼働させました。巨大なボイラーに点火すると煙突から白い煙が立ち上り拍手が起こりました。

9月16日に、8号と呼んでいる巨大な抄紙機(紙を作る機械)を再稼働させることができました。当たり前ですけれど、入社以来工場は普通に動いていましたから、動いていない工場は初めてで、半年後に再び動き出した時の喜びは格別で感慨深いものがありました。

これがその時の写真です。当時の工場長はもうご引退されていますが、その時のことを一冊の本にしました。とても貴重な記録になっています。私は右のほうでメガホン持って「バンザーイ」なんて言っています。この時はマスコミの方にも大勢来ていただいて、「奇跡の復活。」と報道していただきました。

ただこれはマラソンで言えば、まだやっと10キロか20キロくらいでした。ゴールはまだまだ遠く、「本当にたどり着けるのか?」と思うこともありました。

会社は工場の復興に莫大な資金をかけました。そういうこともあり、従業員の数も減らさなくてはいけなくなりました。石巻工場だけで250名削減しなくてはならなくなり、どうしたら良いか一所懸命取り組みました。

新規の補充をせず、また、他の工場に移っていただくことになりました。従業員の6割が被災されているので、そういう方たちに転勤をお願いするのはとても心が痛みました。

石巻工場のために働いていただいている協力会社が何十社もあって、それらは「もう仕事がないので社員を解雇しなければならないか」という状況だったんですけど、それを思いとどまっていただいて、「いずれ瓦礫処理の仕事が出てきますから、それまでお互い頑張りましょう。」と言いあっていました。

実際に、瓦礫を集めて粉砕して工場のボイラーで燃やすことで、地域貢献にもなり雇用の場も広がりました。地域貢献としては他にも、支援物資や支援金を各地に送ったり、ボランティアを派遣したりしました。

困ったのは、他の工場から応援に来てくれる方、あるいは色んな業者の方の宿泊場所がないことでした。警察も消防の方も全国から集まって来ましたが、石巻市内の宿泊施設はどこも被災していて、仙台から来たりしていて高速道路も朝夕は大渋滞でした。それで、使ってない老人ホームを丸ごと借り入れて、宿泊所の運営みたいなこともやりました。

野球部の選手も瓦礫の処理をしていました。野球連盟にお願いして、地区大会の日程を調整していただきました。地域の子どもたちは野球道具もみんな流されてしまいましたから何もないわけで、いろんなルートを探って使い古しのバットやボールやグローブを集めました。集まったものを地域のスポーツ少年団に寄贈した時は、子ども達が飛びついてきて、その笑顔は忘れることができません。

野球部はいろんな支援物資をいただいたので、そのお礼に北から南まで全国の工場に行きました。これは熊本に行った時の写真です。「白球飛び交う場所に希望あり、ガマダセ東北」とあります。優勝旗も流されたのですが、奇跡的に瓦礫の中から泥だらけになって出てきました。それは今、あえて泥を落とさずに、野球殿堂の中に飾られています。

翌年の7月に、私は山口県岩国市に転勤になりました。完全復興したのはその後の8月30日でした。

伝えたい思い。

あれから毎年現地を訪れています。ご遺体を土葬していたサッカー場も元どおりになっていました。「亡くなった方達のことを忘れない。」というのが自分の中に強くあります。石巻市の人口は約16万人ですが、津波でお亡くなりになった方は3200名を超え、行方不明者は700人にのぼりました。

石巻工場も、非番の従業員の方が5名、OBの方が30名、従業員の家族の方が60名、お亡くなりになりました。関係会社の方まで含めると120名ぐらいの方がお亡くなりになりました。その方達のことを忘れないようにするのは、人事の役目だと思っています。

大きな力をもらったことへの感謝の気持ちは、とてもあります。支援物資がなければ、とうてい生き延びられませんでした。当時はニュースを見ることができませんでしたけど、全国、いや世界中から、自分たちのことのように心配していただき「頑張れ。」と言っていただきました。まさに「世界中が応援してくれているんだ。」と感じまし、大きな勇気をもらいました。

あの頃、漁師さんが船を他の地区から借りて漁を再開したというニュースが度々流れて、漁師さんのコメントは決まって「これでみんなに恩返しすることができます。」というものでした。私達も全く同じ気持ちで、決して「また紙を売って稼ごう。」とかじゃなく、「紙を作って世の中に恩返しがしたい。」そんな風に思っていました。

「地域復興のために何ができるのか?自分たちにできるのは工場の復興しかない。」と思い、地域のために1日も早く復興しようと頑張っていました。震災がなければそんな風に思うこともなかったと思うんですけども、まさに働く喜び、紙を作れることの喜びを実感できました。

これまで色んな話をしてきましたけども、皆さんに何が伝えられたのかわかりません。私自身は皆さんと同じ年代の娘を持つ当たり前のサラリーマンですが、たまたま特別なことに関わってしまいました。

この大学で学ぶみなさんは、自分の勝手なイメージでは「これまでも頑張ってきたし、いまも全力で何かを頑張っている。」と思います。一生懸命目の前のことをやる、貫き通す、継続する、そういうことが大事だと思います。それがないと何をやっても、どこにも行きつかないと思うんです。皆さんはすでにそういう能力を持っていますから、そういう意味では皆さんはこれからも今のままでいいのだと思います。

自分も含めて、ここから先にどこに行くのかわかりませんが、どこに行っても苦労はあります。その中で自分が幸せと思えるかどうか。人と比べる必要は全くありません。比べたくなるけど比べない力を作る。自分がやるべきことをやる。そのためには一所懸命何かを積み重ねるしかありません。近道はないと思います。皆さんはそのことを理解していると思いますから、自信を持ってやり続けてください。

最後に、これは工場の煙突に掲げられた鯉のぼりの写真です。「Power of Nippon」反対側には「今こそ団結!!石巻」と書いてあります。地域の皆さんから「工場も頑張ってるね!」と言っていただけました。

ご静聴ありがとうございました。

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